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中論・21-10頌 共在と遍在との相違性と同一性

第十頌 共在と遍在との相違性と同一性

西嶋先生の訳
共在と遍在とは両方とも、一つのものとしては決して現われて来ない。

共在と遍在とは両方とも、関係のないものとしては決して現われて来ない。




中論を勉強しています
存在に対する考え方である共在と遍在とは両方とも、基本的に異なる考え方であるから同じ考え方として決して現われて来る事はない。

共在と遍在とは両方とも存在に対する考え方であるので、共在と遍在は全く無関係で有りそれぞれが独立したものとして現われて来る事は決してない。

坐禅をしました
存在に対して共存の立場で考える状態と遍在の立場で考える状態がある、この二つの考え方は分析的に考えるか全体的に考えるかという大きな違いがある訳だから決して同じ考えになる事はあり得ない。

しかし共存の立場で考える状態と遍在の立場で考える状態はどちらも存在に対する考え方であるので、存在というものがある限り共在があれば遍在もあり遍在があれば共在があるという関係であり決してそれぞれが単独で現われる事はあり得ない。



※我々はさまざまの事物に対して分析して考えたり全体的に判断するという二つの方法で事物を理解しょうとする。しかし事物を理解する時に、二つのどちらかが単独で事物を理解するという事は決してなく、二つの考え方が切り離される事はあり得ない。



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中論・21-9頌 共在と遍在と均衡した状態

第九頌 共在と遍在と均衡した状態

西嶋先生の訳
共在と遍在とは両方とも同じように、均衡した状態の中には姿を現わして来ない。

共在と遍在とは両方とも同じように、均衡していない状態の中にも姿を現わして来ない。




中論を勉強しています
事物の存在に対する考え方である共在と遍在は両方とも同じように、事物をありのままに受け入れる均衡した状態において共在と遍在の考え方が現われる事などあり得ない。

事物の存在に対する考え方である共在と遍在は両方とも同じように、事物を偏見や思い込みで捉える均衡していない状態においても共在と遍在の考え方が現われる事などあり得ない。

坐禅をしました
共在と遍在の両方の状態において、均衡した状態が様々の事物をありのままに捉える状態になる事を共在と遍在の考え方によって遮られる事はない。

共在と遍在の両方の状態において、均衡していない状態が様々の事物を思い込みで捉える状態になる事を共在と遍在の考え方によって遮られる事はない。



※この頌は坐禅をしないと理解する事が難しい。

※この世の中をありのままに観ると共在と遍在という考え方は無くなる、しかしこの世の中をありのままに観ないと共在と遍在という根本的で素直な事物の解釈が起こらなくなる。共在と遍在は均衡した状態の中で直観的に気付く事である。

※共在と遍在は存在に対する考え方である。均衡した状態では存在に対して頭で考える必要がなく、ありのままの受け入れる態度であるから共在と遍在の考え方が現われる事はあり得ない。また均衡した状態でない場合では錯覚や誤解で事物の存在を色々と捉えるので、事物の本質的な捉え方である共在と遍在の考え方が現われる事はやはりあり得ない。



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中論・21-8頌 存在と遍在および共在

第八頌 存在と遍在および共在

西嶋先生の訳
存在そのものがない場合には、共在と遍在とを両方とも認識することができない。

共在と遍在とが両方とも存在しない場合には、存在そのものを認識することができない。




中論を勉強しています
もしもこの世の中に存在そのものがないならば、我々は共在と遍在という事物に対する理解や考え方を知ることができないだろう。

もしも共在と遍在という考え方を知らなければ、我々は存在がどの様に存在しているのかという事が何時まで経っても理解できないだろう。

坐禅をしました
もしも共在がどの様な状態で存在しているのか、そして遍在はどの様な状態で存在しているのかと言うこの両方の事物に対する基本的な考え方がないならば、我々は存在というものをどの様に理解すればよいのか解らなくなる。

もしも共在という考え方と遍在という考え方という両方の考え方がないならば、我々は目の前の事物がどの様な状態で存在しているのか認識する事が出来なくなる。



※存在が共在と遍在なしに存在する事はないし、共在と遍在が存在なしに存在する事もない。

※共在と遍在の考え方やあり方があるからこそ、この世の中の諸々事物がどの様に存在しているか理解できる。共在と遍在の状態がどの様であるかと認識できるからこそ、この世の中が実在する事が信じられる。



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中論・21-7頌 遍在と共在とが存在する場所

第七頌 遍在と共在とが存在する場所

西嶋先生の訳
共在が何処か具体的な場所に実在しているという事実はあり得ないし、共在が何処か具体的でない場所に実在しているということもあり得ない。

遍在が何処か具体的な場所に実在しているという事実はあり得ないし、遍在が何処か具体的でない場所に実在しているという事実も絶対にあり得ない。



中論を勉強しています
何処か具体的な場所において共在は実在する事がない、頭で考える空想の場所においても存在する事がないのが共在である。

何処か具体的な場所において遍在は実在する事がない、遍在もまた頭で考える空想の状況の中に存在する事は絶対にあり得ない。

坐禅をしました
事物の存在において個々バラバラに存在する事は事実であるが、この様な事物に対する存在の捉え方が共在である。だから共在というものは事物の存在に対する考え方であり、何処かに共在というものが実在するという事は絶対にあり得ない。

同じ様に事物の存在において統一的な価値や意味を持って存在する事は事実であるが、この様な事物に対する存在の捉え方が遍在である。だから偏在というものも事物の存在に対する考え方であり、遍在が何処かに実在するという事は絶対にあり得ない。



※共在も遍在も存在に対して頭で考え出した内容であるので現実には存在しないものである。だから共在や遍在が何処か具体的な場所や空想の場所に実在する事は絶対にあり得ない。



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中論・21-6頌 具体的な事物のあり方

第六頌 具体的な事物のあり方

西嶋先生の訳
相互に異なったさまざまの事物が同時に存在しているということが現実の事態であり、それと同時に個々の事物の相互関係を意識しなくなった状態がその発展である。

そのように発展した状態における現実の事態は(頭脳や感覚による)認識の対象とはならないし、それから発展した事態は、どのような状況の中でも全く認識の対象とはならない。




中論を勉強しています
相互に異なったさまざまの事物が同時に存在しているということが現実の事態であり、それと同時に相互に異なったさまざまの事物が個々の事物として意識しなくなるのも現実の事態である。

そのように考える現実の事態は(頭脳や感覚による)認識の対象とはならないし、それから考え出される事柄がどうしてどのような状況の中でも全く認識の対象となる事があるだろうか。

坐禅をしました
具体的な事物のあり方というものは、相互に異なったさまざまの事物がそれぞれにあるのが現実であるという考えと、相互に異なったさまざまの事物がそれぞれにあるのではなく一つにまとまったものが現実であるという考えがある。

この様に考える具体的な事物のあり方は認識される事はない、認識されない具体的な事物のあり方がどうしてそれ以上に認識される事があり得るだろう。



※我々がこの世の中の事物のあり方を考える時に、事物を分析して相互に異なるものがバラバラではあるが共に存在しているのが具体的な事物のあり方であると考えたり、または事物を観念的に一つの綜合的な見方で捉えるのが具体的な事物のあり方であると思っている。しかし具体的な事物のあり方は頭で考えた内容であり現実には実在する事はない、だから具体的な事物のあり方が認識される事などあり得ない。その実在しない具体的な事物のあり方がどうしてそれ以上の存在になり得るであろうか、我々は具体的な事物を認識する事は出来るが具体的な事物のあり方を認識する事は出来ない。



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プロフィール

悠村隆道

Author:悠村隆道
ご訪問ありがとうございます。
70歳。自営業。妻と二人暮らし。
毎日(朝・晩)坐禅を自宅でしています。
師事した愚道和夫老師より平成15年「授戒」を受け、平成20年「嗣書」を授かりました。    

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