fc2ブログ

中論・24-19頌 綜合的な現象と宇宙の認識

第十九頌 綜合的な現象と宇宙の認識

西嶋先生の訳
眼の前に現われている総合的な現象に対して不信な見方をしているような場合には、宇宙の認識されることが絶対にあり得ない。

正にそのような複雑な事情のために、自由で静かな境地が見当たらないのであるから、宇宙の秩序が認識される可能性も全くない。




中論を勉強しています
我々の眼の前に現われているこの世の中の現象に対して決して信じる事が出来ない場合には、我々がこの世の中を認識する事は絶対にあり得ない。

正にこの世の中の存在を信じられないのであるから、自由で静かなありのままな境地になる事がないのだから、この世の中を認識する事が絶対に出来ない。

坐禅をしました
因果の法則を信じずこの世の中は只の偶然の出来事によって成り立っていると主張するならば、この世の中を成り立たせる一切の原理は何であるかは認識する事は出来ない。

何故ならばその様な主張からは自由で静かなありのままな境地になる事はなく、素直にこの世の中を受け入れられないから決してこの世の中を成り立たせる一切の原理は何であるかを認識する事は不可能である。


 
※いまだかつて、どのような「もの」であろうと,原因と結果の法則にのっとって生まれなかったものはなにひとつない。それゆえどのような「もの」 であろうとありのままに存在していないと言うものは何処にもない。

※この世の中の全ての存在を信じず、この世の中は所詮只の偶然の出来事であると主張するならば、言葉では表現できないこの世の中に存在する何かを見付ける事は出来ないであろう。何故ならばその様な主張は思考や感受の部分的な受け入れであり、行いによってからだ全体で受け入れる態度ではない為、この世の中をありのままに受け入れる事が出来ず、この世の中の実体は何であるかという事に気付く事は決してあり得ない。
・・・・・・だから私は坐禅を勧める。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村


中論・24-18頌 明々白々とした現象と中道

第十八頌 明々白々とした現象と中道

西嶋先生の訳
そのような明々白々としたさまざまの現象が、さまざまの自由で静かな境地やさまざまの現実を作り出していることを、私は(君たちに対して)教えている。

そのような現実の情報が、われわれの感受作用の働きであり、そのようにして感受されたものが正に中道である。




中論を勉強しています
我々の眼の前にある明々白々とした現象が、様々なありのままの状態を作り出していて、その様な事実を私はあなた方に教えている。

その様なさまざまな状態の内容を正確に我々に教えてくれるのは、我々がもっている感受作用でありその感受作用から得られるものが中道である。

坐禅をしました
我々の目の前にある明々白々の世界がこの世の中の実体であり、ありのままに素直に受け入れる態度が正しい事である。その様なこの世の中の現実を私はあなた方に教えている。

この世の中の様々な現実を正確に我々に教えてくれるのが、我々が生まれながらに持っている五感による感受作用である。この感受作用を何ものにも偏らず素直に受け入れる事こそが中道である。



※この頌はとても難解で中道に関して漠然としていて釈然としない。

※多くの原因結果によって生まれるこの世の中の実体はありのままである。その実体の表れの一つとして感受作用による物質という考え方がある。この物質と言う考え方は我々の原因結果の原則と言う思考によって生まれるものであり、我々無くして自ら成り立つものではない。我々無くして自ら成り立つものではないのだから、もしも我々がいなければ物質というものは何ものにも偏らないありのままの状態である。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村


中論・24-17頌 非仏教徒と現実の否定

第十七頌 非仏教徒と現実の否定

西嶋先生の訳
行為を実行することに依って正にその動機を実現し、行為を実行することとその行為の動機とが、行いの実行を作り出す。

(しかし仏教を信じない)君は目の前の現象や、自己規制や、結果などを完全に否定している。




中論を勉強しています
行為を実行する事はその実行が具体化する事であり、行為の動機と行為を行う者がその行為の実行を作り出す。

しかし仏教を信じない君は我々の目の前に見えている現象や、自分は自由自在である事や、原因に対する結果がある事を全て否定している。

坐禅をしました
この世の中には行為というものが存在する、その行為というものは行為の原因となる動機と行為を実行する者によって行為というものが作られる。

しかし目の前で明らかに存在し認識出来る現象や、心身をおちつかせて自分を自由自在に操れる状態や、原因がある事によって導かれる結果というものが存在するのに、仏教を信じない君は全ての存在を否定する。



※仏教を信じない人々の中には、この世の中に存在する一切を否定する考え方の人々がいる。その様な考え方を虚無主義と言われているのであるが、仏教では中論の第1章(確かな事実に関する検証)で主張する様にこの世の中にはいくら存在を疑ってもいくら存在を否定しても厳然とした確かな実がある事を述べている。
※また別の仏教を信じない人々の言う通りに、この世の中の様々の実体にはすでに決まった宿命があると言うならば、原因と結果などのこの世の中の諸々の出来事は存在しない事になってしまう。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村


中論・24-16頌 主観的な存在からの離脱と現実

第十六頌 主観的な存在からの離脱と現実

西嶋先生の訳
もしも君が(頭の中で作り上げた)主観的な存在を離れるならば、さまざまの存在の中に現実の存在を発見するであろう。

理性以外の確かなさまざまの事実が、さまざまの存在として実在していることを、君は正に現実の事態として見るであろう。




中論を勉強しています
もしも君が自分の頭の中で作り上げた様々な存在から離れて、この世の中をありのままに眺めてみるならば、実在していると思い込んでいる様々の存在の中に正に現実を見つけるであろう。

理性以外の確かな三つの事実が、実在していると思い込んでいる様々の存在の中に、正に現実の事態として三つの事実が存在している事に気付くであろう。

坐禅をしました
我々はこの世の中には自分の頭の中で考えた存在が有ると思っている、もしもその様な存在はこの世の中の様々な存在の一部であるとして現実を素直に眺めてみるならば確かな存在を発見するであろう。

理性と理性以外の確かな三つの真実がこの世の中には存在している、そして君は確かな四つの真実を現実の事態として様々の存在の中に存在する事に気付くであろう。



※もしもこの世の中の様々な事物はすでに決められた状態であると主張するならば、この世の中の様々な事物には原因もそれに繋がる結果と言うものも無いという事になる。何故ならば、もしもこの世の中の事物に定まって動かない宿命というものが在るならば、すなわち事物は生まれる事はなく滅びる事もない、始めから存在するものであり現在の瞬間の存在である。この様な事物にどうして原因もそれに伴う結果というものが必要とされるのだろうか。

※もしも様々の事物が原因とそれに伴う結果から生まれるとするならば、すなわちすでに決められた状態である宿命というものは無い事になる。このことからもしも様々の事物において定まって決して動かない宿命があるならば、原因もそれに伴う結果も存在しないという事になる。

※もしも「様々の事物の真の性質はすでに決められておりおり変わる事のない性質である」と主張するならばこの主張は間違っている。だからこの世の中は一分一厘の狂いもなく原因結果で成り立て居る。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

中論・24-15頌 非仏教徒と霊魂その他

第十五頌 非仏教徒と霊魂その他

西嶋先生の訳
君は正にさまざまの悪徳や個人的な霊魂や客観的な霊魂を作り上げ、この世の中のさまざまの事物の中に、弁護できるようなものを作り上げている。

正に自分が馬に乗っておりながら、犬の上に腰を下ろしたような不注意な状態を続けている。




中論を勉強しています
仏教を信じない正にあなたは、数々の間違いや生前には霊魂があり死後にも霊魂の存在を作り上げている、そしてこの世の中のさまざまの事物の中にも自分にとって都合の良い理屈を作り上げている。

その様な事はちょうど自分が馬に乗っておりながら、現実を無視してもしかすると非常に危険な他の乗り物にのって不注意な状態を続けているのに似ている。

坐禅をしました
仏教を信じない正にあなたは間違っている、魂は常に二つ存在するという考え方は我々にこの世の中の現実を無視する都合のよい言い訳を作り出している。

それはまるで自分は今まさに馬に乗りいつ落馬するかわからない状態でありながら、自分が今馬に乗っているという自覚がなく呑気に馬にまたがり全く緊張感がない状態に似ている。



※この頌は原文二行目(正に自分が馬に云々)がとても難解。

※人々はやらねばならぬ事をついやらなかったり、やってはならぬ事をついやってしまったりと自分には二つの心が有ると思っている。人々はこの二つの心が自分たちには有ると思い込んでいて何かと上手くいかない人生を、この世の中は間違っているとか自分は駄目な人間などと自分たちに言い訳をしている。それはまるで現実と言う馬に乗っていながら、現実を認めずに自分は駄馬に乗っていると思い込んで自分の思い通りにならない現実と言う馬を叱責している様なものだ。ふたつの心があるという考え方は間違いであると自分で気が付かなければ、ありのままと言う言葉では表現できない実体も理解できず、いつまで経っても静かで落ち着いた日常生活を送れる事には成らない。
・・・・・・だから私は坐禅を勧める。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村



プロフィール

悠村隆道

Author:悠村隆道
ご訪問ありがとうございます。
70歳。自営業。妻と二人暮らし。
毎日(朝・晩)坐禅を自宅でしています。
師事した愚道和夫老師より平成15年「授戒」を受け、平成20年「嗣書」を授かりました。    

最新記事