第十頌 共在と遍在との相違性と同一性
西嶋先生の訳
共在と遍在とは両方とも、一つのものとしては決して現われて来ない。
共在と遍在とは両方とも、関係のないものとしては決して現われて来ない。
中論を勉強しています
存在に対する考え方である共在と遍在とは両方とも、基本的に異なる考え方であるから同じ考え方として決して現われて来る事はない。
共在と遍在とは両方とも存在に対する考え方であるので、共在と遍在は全く無関係で有りそれぞれが独立したものとして現われて来る事は決してない。
坐禅をしました
存在に対して共存の立場で考える状態と遍在の立場で考える状態がある、この二つの考え方は分析的に考えるか全体的に考えるかという大きな違いがある訳だから決して同じ考えになる事はあり得ない。
しかし共存の立場で考える状態と遍在の立場で考える状態はどちらも存在に対する考え方であるので、存在というものがある限り共在があれば遍在もあり遍在があれば共在があるという関係であり決してそれぞれが単独で現われる事はあり得ない。
※我々はさまざまの事物に対して分析して考えたり全体的に判断するという二つの方法で事物を理解しょうとする。しかし事物を理解する時に、二つのどちらかが単独で事物を理解するという事は決してなく、二つの考え方が切り離される事はあり得ない。
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共在と遍在とは両方とも、一つのものとしては決して現われて来ない。
共在と遍在とは両方とも、関係のないものとしては決して現われて来ない。
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存在に対する考え方である共在と遍在とは両方とも、基本的に異なる考え方であるから同じ考え方として決して現われて来る事はない。
共在と遍在とは両方とも存在に対する考え方であるので、共在と遍在は全く無関係で有りそれぞれが独立したものとして現われて来る事は決してない。
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存在に対して共存の立場で考える状態と遍在の立場で考える状態がある、この二つの考え方は分析的に考えるか全体的に考えるかという大きな違いがある訳だから決して同じ考えになる事はあり得ない。
しかし共存の立場で考える状態と遍在の立場で考える状態はどちらも存在に対する考え方であるので、存在というものがある限り共在があれば遍在もあり遍在があれば共在があるという関係であり決してそれぞれが単独で現われる事はあり得ない。
※我々はさまざまの事物に対して分析して考えたり全体的に判断するという二つの方法で事物を理解しょうとする。しかし事物を理解する時に、二つのどちらかが単独で事物を理解するという事は決してなく、二つの考え方が切り離される事はあり得ない。
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