第十九頌 綜合的な現象と宇宙の認識
西嶋先生の訳
眼の前に現われている総合的な現象に対して不信な見方をしているような場合には、宇宙の認識されることが絶対にあり得ない。
正にそのような複雑な事情のために、自由で静かな境地が見当たらないのであるから、宇宙の秩序が認識される可能性も全くない。
中論を勉強しています
我々の眼の前に現われているこの世の中の現象に対して決して信じる事が出来ない場合には、我々がこの世の中を認識する事は絶対にあり得ない。
正にこの世の中の存在を信じられないのであるから、自由で静かなありのままな境地になる事がないのだから、この世の中を認識する事が絶対に出来ない。
坐禅をしました
因果の法則を信じずこの世の中は只の偶然の出来事によって成り立っていると主張するならば、この世の中を成り立たせる一切の原理は何であるかは認識する事は出来ない。
何故ならばその様な主張からは自由で静かなありのままな境地になる事はなく、素直にこの世の中を受け入れられないから決してこの世の中を成り立たせる一切の原理は何であるかを認識する事は不可能である。
※いまだかつて、どのような「もの」であろうと,原因と結果の法則にのっとって生まれなかったものはなにひとつない。それゆえどのような「もの」 であろうとありのままに存在していないと言うものは何処にもない。
※この世の中の全ての存在を信じず、この世の中は所詮只の偶然の出来事であると主張するならば、言葉では表現できないこの世の中に存在する何かを見付ける事は出来ないであろう。何故ならばその様な主張は思考や感受の部分的な受け入れであり、行いによってからだ全体で受け入れる態度ではない為、この世の中をありのままに受け入れる事が出来ず、この世の中の実体は何であるかという事に気付く事は決してあり得ない。
・・・・・・だから私は坐禅を勧める。

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眼の前に現われている総合的な現象に対して不信な見方をしているような場合には、宇宙の認識されることが絶対にあり得ない。
正にそのような複雑な事情のために、自由で静かな境地が見当たらないのであるから、宇宙の秩序が認識される可能性も全くない。
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我々の眼の前に現われているこの世の中の現象に対して決して信じる事が出来ない場合には、我々がこの世の中を認識する事は絶対にあり得ない。
正にこの世の中の存在を信じられないのであるから、自由で静かなありのままな境地になる事がないのだから、この世の中を認識する事が絶対に出来ない。
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因果の法則を信じずこの世の中は只の偶然の出来事によって成り立っていると主張するならば、この世の中を成り立たせる一切の原理は何であるかは認識する事は出来ない。
何故ならばその様な主張からは自由で静かなありのままな境地になる事はなく、素直にこの世の中を受け入れられないから決してこの世の中を成り立たせる一切の原理は何であるかを認識する事は不可能である。
※いまだかつて、どのような「もの」であろうと,原因と結果の法則にのっとって生まれなかったものはなにひとつない。それゆえどのような「もの」 であろうとありのままに存在していないと言うものは何処にもない。
※この世の中の全ての存在を信じず、この世の中は所詮只の偶然の出来事であると主張するならば、言葉では表現できないこの世の中に存在する何かを見付ける事は出来ないであろう。何故ならばその様な主張は思考や感受の部分的な受け入れであり、行いによってからだ全体で受け入れる態度ではない為、この世の中をありのままに受け入れる事が出来ず、この世の中の実体は何であるかという事に気付く事は決してあり得ない。
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