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中論・21-19頌 自己管理された状態と現在の瞬間における事実

第十九頌 自己管理された状態と現在の瞬間における事実

西嶋先生の訳
自己管理された状態の中では、(したがって)究極の状態の中では、最も優れたものが生まれている。

自己管理された状態がたった一つあるだけであるから、(その自己管理された状態が)現在の瞬間において眼の前にあるという事実が、後にも先にも唯一回限りの事実として存在しているということであろう。




中論を勉強しています
自己管理された状態でありのままに結果の存在を見た場合、原因の存在がもしも存在した場合、

自己管理された状態であり或いはありのままにな状態はたった一つのものであり、現在の瞬間において存在している事実は後にも先にも唯一回限りの事実として存在しているということであろう。

坐禅をしました
ありのままにこの世の中を眺めて観ると結果という存在がある、そして原因という存在がもしも存在するならば存在するであろう。

ありのままにこの世の中を眺めて観ると原因と結果の存在は一回限りの事であり、同じ瞬間に新たな存在が現われるという事は後にも先にもあり得ないと言えるだろう。



※原因の存在が無くなる同じ瞬間に結果の存在が現われれば、二つの存在が同じ瞬間において一緒に存在していることになるのでその様な事はあり得ない。つまり一つは原因の存在が無くなる瞬間のたった一つの存在であり、もう一つの存在は結果の存在が現われる瞬間の全く別の存在である。

※無くなる存在と現われる存在が一緒に存在する事はあり得ないのに、我々には原因の存在がなくなる時、結果の存在が現われる事が同時に見える事が現実の様に見えてしまう。何故だろう?

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中論・21-18頌 究極の段階と単純明快な事実

第十八頌 究極の段階と単純明快な事実

西嶋先生の訳
究極の段階においては、したがって抑制されていない状態の中においては、最も優れたものが、存在として拘束されているということがない。

究極の段階においては、抑制されていない状態がなくても、最も優れたものが存在として拘束されている。



中論を勉強しています
現実の世界においては、したがって何も隠れているものがない状態の中において、現実が存在としてあるのは当然の事である。

現実の世界においては、したがって何かが隠されているかもしれない状態の中において、現実が存在としてあるのは当然の事である。

坐禅をしました
結果という現実はあからさまであり隠す事は出来ないものである、そして原因という現実が存在であるという事は間違いのない事である。

たとえ結果という現実があからさまでなく納得がいかない場合でも、原因という現実が存在であるという事は間違いのない事である。



※我々が原因の存在をこの世の中の存在と言い、結果の存在を将来の存在と言うのであれば、もしも原因の存在が無くなって、その後で結果の存在が有ると主張するのであれば、この結果の存在には原因がないという事になるの訳だからこの様な状態はあり得ない事である。
そうすると「原因の存在が無くても、結果の存在が有る」という事は決して言うことはできないし、原因の存在がまだ無くなってもいないのに結果の存在が既に有るはずがない。
もしも原因の存在がまだ無くなってもいないのに結果の存在が既に有ると主張するのであれば、同じ瞬間に同じ存在が存在するという事になり、その様な状態はあり得ない事である。
それ故に原因の存在が無くなっていなければ結果の存在はないと言い切れる。

※結果の存在は原因の存在が無くなってから後に生まれるものではなく、原因の存在が無くなっていないのに結果の存在が生まれるものでもない。ただ結果と云う

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中論・21-17頌 抽象的な存在と均衡した状態

第十七頌 抽象的な存在と均衡した状態

西嶋先生の訳
抽象的な存在は、現実的な存在の中に含まれているということもないし、主観的な存在に依存して拘束されているということも決してない。

均衡した状態における時間の中では、断絶そのものも停止した状態を離れて、継続的な存在の中にある。




中論を勉強しています
眼の前の現実的な存在の中に自分で考え出した抽象的な存在が含まれているという事もないし、人それぞれが各自で持っている主観的な存在に依存して抽象的な存在が拘束され一つにまとめられる事も決してない。

身も心も穏やかに過ごしている時には、今まで続いてきたものが断ち切られる断絶というものが一時的に停止をして、連続する瞬間瞬間の中に存在している。

坐禅をしました
自分が考え出した抽象的な存在は現実の中には決して存在しないし、人それぞれが考えている存在を自分が考え出した抽象的な存在によって一つにまとめる事も決してあり得ない。

例えばたまたま何かが断絶したり消滅したりして現実が止まっている様に見える事がある。もしも身も心も非常に落ち着いた状態の時であるならば、その様な状態は現在の瞬間の事実であり、その事実は絶えまなく続く連続の中に存在していると云う事に気が付く様になる。



*抽象的な存在=頭の中で考え出した抽象的な考え方

※前半の頌は非常に難解であった。

※我々は自分で考えを導き出しその考えに誰も立ち入る事が出来ない抽象的な想念を持つ事が出来る。その抽象的な想念というものは現実的な存在の中には含まれることはなし、各人それぞれに持っている色々な考え方が一つに縛られたりとか一つに纏められるという事は決してない。

※、一見すると断絶するとか消滅するとかと云うものは原因もなくその前後とは無関係に立ち起こり、あたかもその瞬間が止まっている様に見える事がある。しかし坐禅をしている時の様に心身とも極めて静かで落ち着いた状況の中では、それらは将に現在の瞬間の事実として絶えまなく続く連続の中に存在していると気付く事が出来る。

※現実に存在として実在しているのに、実在していないと言い張る事は間違っている。存在する事が連続しているのに何も変化しない様に見える事がある、その様な状態は原因が存在しない消滅と言った誤った見解である。しかし身心穏やかな時においてはその様な誤った見解に陥る事はない。

だから私は坐禅を勧める。

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中論・21-16頌 生起、消滅、存続の容認

第十六頌 生起、消滅、存続の容認

西嶋先生の訳
生起や消滅や存続が、結果と理性とが一つに重なった包括的な存在として理解されたばあいには、

理性的に考えられた断絶という事態も、消滅が一回切りしか起り得ないという考え方に従って、安定した立場で考えることができるようになる。




中論を勉強しています
生起や消滅や存続の存在は、理性によって呼び起こした原因と目の前の結果との比較による存在として理解する事が出来る様になると、

頭で考える断絶という事態も、消滅が一回切りの出来事であるという考え方によって安定した立場で考えることができるようになる。

坐禅をしました
出現や消滅が連続して存続する様に見える存在は、原因と結果の法則による解釈であるが、もしも存在というものは必ず原因と結果の法則を伴っているとするならば、

もしも消滅は一回切りの出来事であるという考え方は、原因と結果の法則に否定が原因の結論であり、自分の考え方にこだわっている。



*断滅=この世の中の全ての物事は原因結果の法則で存在しているので、変化しないという事物は決して存在はない。また原因結果の法則は何処でも何処までも存在していて断絶している事はない。そのためにこの世の中が切れ切れに断滅するという見方は間違った見方である。
絶対の消滅=因果関係を持たずに瞬間瞬間に消滅する事。

※この世の中には何かが出現したり消滅したり存続し続けるという状態がある様に見える事がある、それは時間系列で比較する原因と結果の法則によって現われる事である。もしも存在というものがこの原因と結果の法則を伴っているものだとしたならば、消滅が一回切りの出来事だという考え方は、この世の中は今だけしかなく過去も将来もないという考え方から生まれるものであり、この様な刹那的な考え方は余りにも自分の考え方にこだわっている。

※もしも存在というものが生じては滅する事の連続による原因と結果であるとするのに、あなたが「滅する出来事は一度きりである」と主張するならばそれは原因の断滅であると思える。この世の中の全てに対して何の価値も認めない自分の考え方に拘ってしまっていると思える。・・・(刹那主義への警告)

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中論・21-15頌 現実と存在

第十五頌 現実と存在

西嶋先生の訳
眼の前に見えている現象の中に含まれている刹那的なものが、存在を作り出しているということはあり得ないし、(存在を)永遠なものが作り出しているということもあり得ない。

何故かというと、発生や消滅や存続は、結果と理性とが一つに重なった存在そのものと全く同じであるから。




中論を勉強しています
存在というものは我々の目の前に現われる刹那的なものによって作り出される事はないし、あるいは我々の目の前に現われる永遠なものによって作り出されるという事も決してあり得ない。

何故ならば、我々の目の前に現われる現象として発生や消滅や存続があるが、それらの現象は頭で考えた原因と結果によって作り出された内容である。それと同じ様に刹那的なものも永遠と思えるものも我々が頭で考え出した解釈でありこの世の中に実在する事はないし、それらによって存在というものが作り出される事など決してあり得ない。

坐禅をしました
この世の中を遍在的立場で見るならば永遠の存在と思える事がある、そしてこの世の中を共在的立場で見るならば瞬間的な存在と思える事がある。しかし永遠と思える事も瞬間的と思える事もどちらも頭で考えた内容であり、目の前の存在というものは瞬間的なものではないし永遠なものでもない。

発生や消滅や存続というものは原因と結果という考え方によって生まれるものであり、目の前の存在というものも必ず原因と結果という考え方を伴っている。



※刹那も永遠も人間の頭で考え出された解釈であるから、いくら眼の前に現われる現象の中に刹那とか永遠が存在する様に見えたとしても、それは時間系列による解釈である。そして目の前の存在というものは瞬間的なものではないし永遠なものでもない、それは現在の瞬間における単純な事実に過ぎない。

※何かが現われる無くなるそして存続がある様に見える現象は、時間系列における原因と結果を考える働きによって生まれ、あたかも存在している様に見える。発生や消滅や存続におけるそれぞれの存在というものは原因と結果の考え方から生まれるものである。だから頭で考え出された存在というものから存在というものが生まれる事はあり得ないと言い切れる。


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プロフィール

悠村隆道

Author:悠村隆道
ご訪問ありがとうございます。
70歳。自営業。妻と二人暮らし。
毎日(朝・晩)坐禅を自宅でしています。
師事した愚道和夫老師より平成15年「授戒」を受け、平成20年「嗣書」を授かりました。    

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