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中論・26-9頌 忍耐と現実の世界

第九頌 忍耐と現実の世界

西嶋先生の訳
憂鬱な状態を耐え忍んでいると、この世の中が姿を現わし、現実の世界が動き出す。

そのようにして綜合的な世界が、個々の特殊事情の中に、この現実の世界の中に、苦痛と(五種類の)集合体とが一つに重なった状態の中に存在している。




中論を勉強しています
憂鬱な状態を耐え忍んでいると、その憂鬱はこの世の中の事であり、現実の事であると認識するようになる。

憂鬱を含む綜合的なこの世の中において、また一つ一つの特殊な事情においても、この現実の世界においては憂鬱の苦しみと五蘊(五種類の集合体)とが一つに重なった状態で存在している。

坐禅をしました
憂鬱の苦しみを耐え忍んでいると、この憂鬱はこの世の中の様々な事が原因で生まれてきものであり、この憂鬱は現実であると認識するようになる。

その様にして認識された憂鬱のひとつひとつはこの世の中の現実である。そして憂鬱と五蘊が一体となっている、つまり心の憂鬱と体の憂鬱が絡み合って一つになった状態で存在している。



※我々は憂鬱に悩まされる、人生の原因結果による憂鬱、過去とか将来の事を色々と考え込んでしまう憂鬱、自分ではどの様にもしようがない生まれながらの憂鬱など色々と数え上げたらきりがない。この世の中は生きずらく憂鬱なものだと考え始めたら「何故、自分は生まれてきたのだろう」という疑問が生まれる。

※我々は憂鬱に悩まされる、この疑問の答えを探そうと本を読んだり講演会へ出かけたりして沢山の知識をため込むが、いくら知識を得ようと勉強しても何が本当なのか分からず益々憂鬱になって行く。 

※我々は憂鬱に悩まされる、憂鬱と言うものは頭で考えた内容であり現実の実情とは決した一致することはない。この真理に気付かないことが憂鬱の原因である。頭で考えればいくらでも理想がえがけるがその理想はこの世の中には何処にも存在しない。

※我々は憂鬱に悩まされる、憂鬱による苦しみは特殊な事情を持っている人も居るだろうし、ごく一般的に誰もが持っている苦しみもあるだろう。・・・・・・だから私は「一人坐禅」を勧める。日常生活の中において毎日坐禅をして、心の憂鬱と体の憂鬱が一体となっている苦しみを現実としてありのままに受け入れ「これが本当の自分なのだ」、毎日一所懸命に生きている自分自身に対して「これでいいのだ」となればいいのだけれども。

※坐禅の仕方は、ブログ正法眼蔵=坐禅=涅槃を読んでください。
       https://honjoutarou.blog.fc2.com/blog-entry-25.html


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中論・26-8頌 五種類の集合体と嘆き

第八頌 五種類の集合体と嘆き

西嶋先生の訳
五種類の集合体(五蘊)が正に存在であり、その存在を離れて誕生(生)が具体的なものとなる。

老化や死滅(老死)はさまざまの苦しみであり、さまざまの激しい苦痛は正にさまざまの嘆きである。




中論を勉強しています
五蘊と呼ばれている五種類(色・受・想・行・識)の集合体は現実の存在である。その現実の存在の有無に関わることなく誕生(生)が具体的なものとなる。

老化や死滅(老死)は我々にとって耐え難い苦しみである。その耐え難い苦しみは我々の絶える事のない嘆きである。

坐禅をしました
五蘊と呼ばれている五種類(色・受・想・行・識)の集合体は存在であり現在の瞬間の事実である。その存在があり続けることにより誕生(生)というものが具体的なものとなる。

老化や死滅(老死)は我々にとって耐え難く不愉快なものである。その耐え難い苦しみは我々の絶える事のない嘆きから生まれる。



※五蘊と呼ばれている五種類(色・受・想・行・識)の集合体は存在であり、そして存在と言うものは現在の瞬間の事実である。その存在があり続ける事は現在の瞬間の事実が現れては消え現れては消える事であり、もしも現在の瞬間の前後の状況を比較するならば状況の変化によって誕生(生)が具体的に認識されるようになる。

※老化や死滅(老死)と言うものは我々にとって耐え難く不愉快なものである。この苦しみは耐え難く不愉快な状況を嘆いている暇があるからであり、もしも我々が一所懸命に行いをして我を忘れる様な状況にあるならば(例えば坐禅をしている)我々は老死の苦しみから解放された状態にある。
・・・・・・だから私は「一人坐禅」を勧める。

※坐禅の仕方は、ブログ正法眼蔵=坐禅=涅槃を読んでください。
       https://honjoutarou.blog.fc2.com/blog-entry-25.html


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中論・26-7頌 感受作用と存在

第七頌 感受作用と存在

西嶋先生の訳
感受作用(受)を通して存在(有)が現実的なものとなり、感受作用(受)そのものが実際に機能する。

器としての世界を感受作用の対象として認めることをしないならば、存在を断念しなければならないような事態の存在(有)を考えなければならないような事態はあり得ない。




中論を勉強しています
我々は感受作用(受)を持っているから、この世の中の存在(有)が現実的なものとなる。その事は感受作用そのものが現実に働いている事を意味している。

器に例えられる我々が住むこの世界をもしも感受作用の対象として認めないならば、存在はないと言う事態の存在(有)を我々は考えなければならないだろうか、しかしその様な事態はあり得ない。

坐禅をしました
感受作用(受)から生まれる自分のものにしたいと言う行為(取)によって自分のものにすると言う体験が存在(有)する。この様に能動的な行為は次々と能動的な行為による体験が存在となっていく。

おそらく能動的行動をとらないで頭で考えるだけであるならば、体験をする存在も体験をしない存在もどちらも起きることがない。つまり行為をしている時にしか体験は存在せず、行為をせずに頭で考えているだけの時には体験は存在しない。



※自分のものにしたいと言う行為が行われている事は自分の体を使って体験している状態にある事である。つまり体験していることが行為と言える。

※自分のものにしたいと言う行為は現在の瞬間瞬間における存在であり事実である、この行為は現在の瞬間において絶え間なく現れては消え現れては消える存在であり事実である。

※自分のものにしたいと言う行為は現在の瞬間の前においてはまだ存在していないし、現在の瞬間の後においても行為はすでに過ぎ去ったものであるから存在していない。自分のものにしたいと言う行為は現在の瞬間にしか存在しない。


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中論・26-6頌 感受作用と渇望する心

第六頌 感受作用と渇望する心

西嶋先生の訳
感受作用(受)そのものがさまざまの確かな事実の中に含まれていないということは、望ましいことである。何故ならば(本当に求められているものは、感受作用(受)そのものではなくて)むしろ感受作用の対象の方にあるのであるから。

渇望する心(愛)は感受作用(受)における(感覚器官と感覚の対象と両者の接触と感受作用との)四つの要素として獲得される。




中論を勉強しています
感受作用で外界世界を感じ取り、さまざまの確かな事実があり、外界世界を自分のものにしたいと言う望みがあり、そして感受作用を与える感受作用の対象と言うものがある。

その場合、何かを欲しがる心があり感受するという行いがあり欲しいものを手に入れた瞬間があり、そしてそれが自分のものになった事物が四つの要素として獲得される。

坐禅をしました
感受作用によってその感受作用が好きか嫌いかの感情が心の中に生まれ、そして感受作用の対象物が好かれる事物か嫌われるか事物なのかが生まれる。

好きとか嫌いという考え方は自分のものにしたいという行為を生み出し、その自分のものにしたいと言う行為は感覚器官と感受作用の対象物と感受作用と好き嫌いという心から成る四つの要素によって獲得される。



※我々は日頃好き嫌いという感情や善悪という価値感で物事の判断をしている。それはまず我々の感覚器官と外界世界との接触(純粋経験)によって始まる。

外界世界との接触によって我々の感覚器官が刺激され感受と言う心理作用が生まれる。この感受作用においては快・不快しかないので不快は自然と避けるようになり快だけが感受作用として意識されるようになる。

しかし感受作用が社会性を持たない個人生活ならば不快を避け快だけの生活が出来るのであるが、我々の生活が社会性が増すに従い快だけではなく不快も日々の日常生活の中に入り込んで来る様になる。こうなるとそれまでの様に快だけを受け入れる生活は出来なくなり苦痛ではあるけれど不快な事物も受け入れた生活をしなくてならなくなる。

当然の事として快な事物に対しては好きと言う感情が生まれ、不快な事物に対して嫌いという感情が生まれる。どうやら、好き嫌いの感情は好きが最初に現れ、その反対の感情として嫌いが後に現れたのではないかと思えます。


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中論・26-5頌 物質と感受作用と眼および接触と感受作用

第五頌 物質と感受作用と眼および接触と感受作用

西嶋先生の訳
三種類のものが一つに結び付いた状態とは、物質と感受作用と眼との(三つの結合の)ことである。

したがって接触(触)が接触(触)そのものから抜け出した時に、感受作用(受)が活躍を始める。




中論を勉強しています
接触の働き(触)は三種類のものが一つに出会うことであり、その三種類のものとは物質と感受作用と眼(感覚器官)の事である。

したがって物質と眼(感覚器官)の接触(触)から感受作用が加わった状態になった時に、外界世界を感受する心(受)が働き始める。

坐禅をしました
感受作用(受)に至るには三種類のものの接触の働き(触)が必要である、その三種類のものとは物質と物質を認識する働きと眼(感覚器官)の働き事である。

物質と眼(感覚器官)の働きの接触に伴った状態に、物質を認識する働き(識)が加わることによって、外界世界を感受する感受作用(受)が働き始まる。



※坐禅の話をすると「坐禅をすると無になって何も考えない状態になるんですか?」とよく聞かれる。そんな時には「死ねば無になれますよ」と冗談を言う。そして坐禅に依った自分なりの無について話します。

人々は事物(色)に名称(名)を付けて、事物と名前が重なった(名色の状態)でこの世の中の全てを認識しようとします。名前がわからなければ調べようとするし、名前がなければ名前を付けようとします。例えば目の前の週刊誌をある人は「週刊誌」ある人は「雑誌」ある人は「本」またある人は「ブック」と言う様に、

我々は様々な事物に名前があると、名前が事物そのものであるとか抽象的なものであってもそれは実在すると思い込んでいます。しかしこれは我々が勝手に名前を付けている訳であり、「一体これは何だ」と改めて聞かれた時に果たして答える事はできるだろうか?「これは言葉で表現できないものを我々が便宜上名前を付けてものであり、本来これはこれとしか言いようがないものです」と言うしかないであろう。

だからこの世の中の様々な事物に対して名称を離れたありのままの姿が「無」であり、思い込みや習慣によって我々が付けた名称に縛られず、名前と事物とが一体となって言葉では表現出来ない実態を「これ・あれ・それ」と認識する態度が無の状態ですと説明します。
ただし年をとると自然に「あれ、あれ」と言うようになります(落ち)。
・・・・・・だから私は「一人坐禅」を勧める。

※坐禅の仕方は、ブログ正法眼蔵=坐禅=涅槃を読んでください。
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プロフィール

悠村隆道

Author:悠村隆道
ご訪問ありがとうございます。
70歳代の自営業。妻と二人暮らしです。
毎日(朝・晩)坐禅を自宅でしています。
師事した愚道和夫老師より平成15年「授戒」を受け、平成20年「嗣書」を授かりました。    

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