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中論・27-12頌 未来の不存在

第十二頌 未来の不存在

西嶋先生の訳
未来は決して現に存在するものではない。何故かというならば(もしも未来が既に実際に存在するとするならば)、其処においては悪徳でさせも既に固着してしまっている筈であるから。

既に実行された行為が、仮にも霊魂と呼ばれるものに依存して存在するならば、この世の中に存在しているさまざまの事物も、正に理性に適合しないものになってしまう。




中論を勉強しています
未来というものは頭で考えた事であり、決して今存在しているものではない。もしも既に決定された未来が存在すると言うならば、過去における悪行の影響に縛られてしまい、避けることの出来ない未来になってしまう。

我々の人為的な行為によるものにも拘わらず、それを霊魂と呼ばれるものによる働きであると言うのであれば、この世の中に存在しているさまざまの事物の全てが正に合理性のないものになってしまう。

坐禅をしました
我々はこの世の中に対して、まだ起きてもいない将来の事で怯えて考えたり、既に起きてしまった過去の事で後悔して考えたり、これは間違っているのではないかと善悪で考えたりする。しかしこの世の中は瞬間瞬間の移り変わりの世界であるから、決して何かに縛られて身動きだ出来ない世界ではない。

我々の行為の結果が理解出来ないとか説明出来ないとかと言う理由で、何かの霊魂と言うものに依って成り立ていると主張するのであれば、例えこの世の中の全ての事物が理論的に理解・説明出来たとしても何の意味のないものになってしまう。



※あるとき西嶋先生に質問した。
私:自分はこれまで生きてきて、今思うとゾーとする様な事が何度もありました。今まで生きてこれたのが不思議なくらいです。この運の良さをいったい何に感謝すれば良いのでしょうか?

先生:それはダールマに感謝しなさい。

すると妻:先生、私は食事もつくり洗濯もしています、まず私に感謝すべきだと思います。

先生は笑いながら:あなたもダールマの一部です。

この言葉で私の憂鬱の全てが解決された。あーそうなんだ、つまり妻も私もダールマの一部なのだ、一所懸命に生きる事がダールマに感謝する事なのだと思った。そして今は坐禅をしてダールマに感謝をする毎日を過ごしている。



中論・27-11頌 現在の瞬間と現実の世界

第十一頌 現在の瞬間と現実の世界

西嶋先生の訳
行為における途切れ途切れの瞬間というものは、決して好ましくないものではなく、また行われた行為の結果とは違うものが、現在の瞬間における行いである。

この世の中以外の状態を認識させたいと期待することは、その出発点から拘わりがあり過ぎる。




中論を勉強しています
途切れ途切れの刹那に行われる行為というものは決して好ましくないものではない。また行為の結果は頭で考えた内容であり現在の瞬間の行いである行為とは明らかに違うものである。

この世の中の現状から眼を反らし何らかの目論見を認識させたいと期待する事は、その出発点から拘わりがあり過ぎる。

坐禅をしました
行為の行われる瞬間というものは刹那刹那で切れているが決して望ましくないものではない。また現在の瞬間において行為の完了である結果は頭で認識した内容であり、現在の瞬間の行いである行為とは明らかに違うものである。

この世の中の現実を認めず頭の中で考え出した世界を色々と想像させようとする態度は、その最初の段階から何らかの思い入れと拘りに縛られている。



※この世の中の現在の瞬間は途切れ途切れであることは明快な事実である。それだからこそ、もしも今困難な状態・不幸な状態であっても因果の理法の苦しみから解放され自由に生きる事が出来き幸せにな事が出来るようになる。また現在の瞬間における因果の理法の苦しみである結果と言うものは頭で考え出した内容であり、現在の瞬間における行為は今実行されている「行い」であって結果とは明確に異なるものである。これが仏教の救いである。
また、純粋に現実を探求しようとする姿勢ではなく、何かしらの思惑を持って現実を無視した状況を認識しょうとする事は、その出発点から拘りがある為に現実から離れた状態になってしまうので注意しなければならない。


中論・27-10頌 眼の前の世界が現実の世界

第十頌 眼の前の世界が現実の世界

西嶋先生の訳
もしもこの世の中が、この眼の前の現状とは違ったものとして存在することがあり得るとするならば、この眼の前の現状を拒絶することも可能な筈である。

しかし実情としては、正に現実が確立されているだけのことであって、そのような状態の中においては、生まれつつあるという状態と死滅という状態とは(現実と呼ばれる)一つのものであろう。




中論を勉強しています
もしも我々が住むこの世の中が、この世の中とは異なる別の世界との交換が可能であるとするならば、この眼の前の現状を否定する事も可能なはずであろう。

しかしその様な事が本当にに可能だとしても、そのような状態の中においては現実が存在する事には変わりがなく、生まれつつあるという状態も死滅という状態も同じ現実の一つにしかすぎないものである。

坐禅をしました
もしも我々が住んでいるこの世の中が現状とは異なる別の世界になれるとすれば、我々の目の前にある現状も有り得ない事に出来るだろうか?

しかしその様な状況であったとしても現実はあくまでも現実であって、この世の中が現状とは異なる別の世界になっただけの事であり、相変わらずそこには生まれつつあるという状態もあり死滅という状態もあるという事実がある事には変わりがない。



※われわれは目の前の現実に対していろいろと理想世界を想像する。もしも頭で考えた世界が存在するならば目の前の現状に取って代わって欲しいと願う事があるかもしれない。しかし現実には、たとえこの世の中が自分の望む理想の世界になったとしても、その様な世界においても具体的な事実は変わる事がなく生まれるとか死滅するとかという状態は現実の一つとして相変わらず存在する。結局はもしもこの世の中が頭で考える理想世界に変わったとしても、具体的な事実は何ら変わることはなくこの世の中においても理想世界においても事実が変わる事はない。この事実に反する世界が在るとすればその世界は空想の世界でありお伽話の世界である。


中論・27-9頌 未来、過去、世俗の不存在

第九頌 感受作用と現実と霊魂

西嶋先生の訳
未来と呼ばれるものも過去と呼ばれるものも世俗と呼ばれるものも、現実の事実として現れるものではない。

何故ならばそれらのものはまだ誕生しない以前から、何か別のものの発展として具体的に存在している訳ではないのであるから。




中論を勉強しています
我々は未来も過去も世俗的な道徳もこの世の中に実在していると思っているが、それらは頭で考えた言葉であり内容であって、いずれもが現実の事実ではない。

何故ならば、未来において未来が訪れる以前から未来がこの世の中に実在しているはずはないし、過去においても既に過ぎ去ったはずの過去が依然としてこの世の中に実在しているはずはないし、世俗においても頭で考えた道徳と言う内容がこの世の中に実在している訳ではない。

坐禅をしました
我々は未来とか過去とか世俗的な道徳と言うものがこの世の中には実在しているかの様に思っているが、それらは全て頭で考えた内容であって、この世の中に現実の事実として現れる事は決してない。

何故ならば、それら未来・過去・世俗と言われるものが存在するとするならば、それらが存在する以前にそれらとは別の具体的な未来・過去・世俗と言われる存在が有るはずである、しかし未来・過去・世俗と言われるものが別の具体的に存在としてあると言う事はどの一つを取っても決して存在していないからである。




※「未来派」は永遠性を信奉し、「過去派」は今の世界は過去の創造主によって既に決められていると信奉し、「世俗派」は時代や場所によって変化するこの世の中の道徳を信奉している。・・・・・27章1頌

※我々は頭で考えた内容を言葉で表すとそれはこの世の中に実在すると思っているが、それはあくまでも頭で考えたものを言葉と言う道具を使って表現しただけであり、それが実在すると思っている事は錯覚でありそれが具体的なものとして存在する事はない。だから話し合いと言うものは具体的なものではないから議論をしている者が理解し合えると言う事は中々困難な事である。正に「和(やわらぎ)を以て貴し」である。


中論・27-8頌 感受作用と現実と霊魂

第八頌 感受作用と現実と霊魂

西嶋先生の訳
このように感受作用を離れて別個の事態がある訳ではないのと同じように、感受された内容と現実の事態とが、全く同じであるということも絶対にない。

感受作用とは全く関係のない内容が、霊魂と呼ばれるものに依存して実在するということはないし、具体的なさまざまの事物が確かなものとして実在していないということも決してない。




中論を勉強しています
この様に現在の瞬間の事態である感受作用ではなく、頭で考えて存在すると思っている別の存在の事態(霊魂)がある訳ではない。それと同じ様に感受された内容(考えた結論)と現実の瞬間の事態(感受作用)とが全く同じであると言う事は絶対にない。

感受作用とは全く関係のないが霊魂と呼ばれるもが実在する事は決してない。しかし具体的な様々の事物が確かなものとして実在している事は確かな事である。

坐禅をしました
この様に我々が理解出来ない内容ではない(つまり理解出来る)事態は感受作用である。明確な感受作用こそは現在の瞬間の行為である、しかし感受作用から得た結論である内容と感受作用が全く同じであると言う事は絶対にない。

感受作用とは全く関係のなく頭で考えだされた内容である霊魂と呼ばれるものは存在しないし、頭で考えだした結論である感受作用の内容も同じ様に存在しない。しかし現在の瞬間の行為である感受作用は実在する、これらは確かな事である。



※感受作用の行為は現在の瞬間の感受の行いであって実在しているが、感受作用の内容は感受の刺激を頭で解釈して考えだした結論であり実在する事はない。

※最近タイムスリップした女性が特攻隊員と恋をして別れる映画が人気だそうだ。
20年ぐらい前に、娘がブルーハーツの「リンダ・リンダ」を聞いていた。私が「30年も前のリバイバル曲だね」と言ったら、娘がブルーハーツの作詞・作曲だよと言う。だけど私は確かに高校生の時に「リンダ・リンダ」を聞いていた。
その後、同年代の何人かにその話をしてみたら確かに高校生の時に「リンダ・リンダ」を聞いていたと言う、その頃は高度成長期で工場で働く人の制服は青色が多く「ブルーカラー」と呼ばれ、事務・営業系の人は白のワイシャツを着ていることから「ホワイトカラー」と呼ばれていた。ホワイトカラーの人の背広の色は「ねずみ色」が多く、「リンダ・リンダ」はそのドブねずみ色の背広を着て美しく格好良くなり女の子にもてたいと言う歌かと私は思っていた。
その当時はまだレコードの時代でありラジオから流れてくるリクエストはP・P・Mやブラーザースフォー等のホークソングやタイガースなどのグループサウンド等で、当時としては作詞作曲が先鋭すぎた「リンダ・リンダ」は次第に忘れられていったが記憶に残こっている。
タイムスリップ出来れば記憶が確かめられるのだが・・・。


プロフィール

悠村隆道

Author:悠村隆道
ご訪問ありがとうございます。
70歳代の自営業。妻と二人暮らしです。
毎日(朝・晩)坐禅を自宅でしています。
師事した愚道和夫老師より平成15年「授戒」を受け、平成20年「嗣書」を授かりました。    

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