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中論・10-14頌 燃焼と現実の火

第十四頌 燃焼と現実の火

西嶋先生の訳
燃焼はやはり炎と同じではないし、炎が燃焼を離れて別の場所にあるということでもない。

炎がさまざまの燃焼を作り出す訳ではなく、炎が炎に依存している訳でもなく、さまざまの燃焼が具体的な火に依存している訳でもない。




中論を勉強しています
燃焼はやはり炎と同じではないが、燃焼と離れたところに炎がある訳でもない。

炎が燃焼を作り出す訳ではないし、炎が炎に作り出にされる訳ではない。頭で考える燃焼と頭で考える炎とが一緒にある訳ではない。

坐禅をしました
抽象的な燃焼と具体的な炎は同じではない。もしも燃焼と炎は別々のものだと考えたとしても、現実の灯火においては炎と燃焼が別々に離れて存在する訳ではなく燃焼と炎は一体となって存在する。

もしも抽象的な燃焼と具体的な炎が別々に存在すると考えられたとしても、炎が様々な燃焼を作り出すとか、炎が炎に依存しているとか、様々な燃焼が炎と一緒であるという関係ではない。つまり現実の灯火は頭で考える抽象的な燃焼やな具体的な炎というものとは全く別のものであり、現実の灯火は言葉では言い表せない存在である。



ブログ:正法眼蔵=坐禅 栢樹子の巻7より「燃焼と炎」を検証してみる。

趙州従諗禅師に対してある時僧侶が質問した。

僧問う:達磨大師がはるばるとインドから中国に仏道を伝えるために来られましたが、その真意(抽象的な燃焼)とは一体どの様に理解したらよろしいのでございましょうか。

趙州禅師言う:目の前に生えている庭先の栢樹子の木(現実の灯火)と何ら変わるところのない淡々とした事実だ。

僧問う:いや和尚さん、それはずるい。目の前にある事物(具体的な炎)を譬えにして説明されると私自身はなかなか納得がいきませんから、そういう目の前の事物(具体的な炎)ではなしに、もっと理論的にご説明をいただきたい。

趙州禅師言う:拙僧は庭先の栢樹子の木(現実の灯火)と言ったけれども、庭先の栢樹子の木を目の前の事物と見て、その事物(現実の灯火)を使って(具体的な炎を)説明したつもりはない。
    
僧問う:それでは達磨大師がインドからはるばる中国に来られた真意(抽象的な燃焼)はどの様なものでありましょうか。

趙州禅師言う:目の前の栢樹子の木(現実の灯火)だ。

この話を自分なりに解釈してみるが、
ある僧が師匠である趙州禅師に達磨大師が中国に来た事に対して抽象的な答えを求めて質問をした。趙州禅師はその事に対して目の前に在る栢樹子の木と同じ現実であると答えた。

しかし、ある僧は勘違いをして趙州禅師の答えに対してそんな具体的な例えを聞いているのではなく達磨大師が中国に来た事に対して抽象的な答えを求めて質問しているのです。趙州禅師はその事に対して拙僧は庭先の栢樹子の木と同じ現実だ言ったのだであって、決して庭先の栢樹子の木で具体的な説明したつもりはない。

再度ある僧は師匠である趙州禅師に達磨大師が中国に来た事に対して質問をした。趙州禅師は再度目の前の栢樹子の木だと答えた。私なら達磨大師がインドからはるばる中国に来られた時に生えていた目の前の栢樹子の木だと親切に答えてるだろう。



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プロフィール

悠村隆道

Author:悠村隆道
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妻と2人暮らし。68歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より平成15年「授戒」を受け、平成20年「嗣書」を授かりました。    

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