第三頌 本質の追求は執着
西嶋先生の訳
上記の状況とは異なり無関心な態度を離れた場合でも、光は存在ではないと考えた方が、理論に適っている。
この場合もやはり、何の役にも立たないことを始めることではあるけれども、永遠の灯火などと云う考え方も、物事に拘わり過ぎている。
中論を勉強しています
第二頌の状況とは異なり関心を持って現状を考えてみると、やはり現実に燃えていないものは灯火とは言えないと考えた方が理論に適っている。
頭で考えた永遠の灯火などという架空の事を改めて議論する事は、永遠の灯火という考え方に余りにも拘り過ぎている。
坐禅をしました
別の場所で自分に関係なく現実に灯火が燃えていたとしても、現実に目の前に灯火がある訳ではないのであれば、いくら別の場所で灯火が燃えていたとしても灯火は存在していないと考えた方が理屈に適っている。
いくら考えてもしょうがない事を繰り返す事であるが、このような努力は永遠の灯火などと云う抽象的なものを具体的に理解しょうとする拘りである
*無関心な態度を離れた場合でも:物事に気が付いた場合でも。
*何の役にも立たないことを始める:現実に存在しない事を色々と頭の中で考える事。
※事実に気が付くか気が付かないかによって、事実が有るか無いかに密接に関係する。
西嶋先生の訳
上記の状況とは異なり無関心な態度を離れた場合でも、光は存在ではないと考えた方が、理論に適っている。
この場合もやはり、何の役にも立たないことを始めることではあるけれども、永遠の灯火などと云う考え方も、物事に拘わり過ぎている。
中論を勉強しています
第二頌の状況とは異なり関心を持って現状を考えてみると、やはり現実に燃えていないものは灯火とは言えないと考えた方が理論に適っている。
頭で考えた永遠の灯火などという架空の事を改めて議論する事は、永遠の灯火という考え方に余りにも拘り過ぎている。
坐禅をしました
別の場所で自分に関係なく現実に灯火が燃えていたとしても、現実に目の前に灯火がある訳ではないのであれば、いくら別の場所で灯火が燃えていたとしても灯火は存在していないと考えた方が理屈に適っている。
いくら考えてもしょうがない事を繰り返す事であるが、このような努力は永遠の灯火などと云う抽象的なものを具体的に理解しょうとする拘りである
*無関心な態度を離れた場合でも:物事に気が付いた場合でも。
*何の役にも立たないことを始める:現実に存在しない事を色々と頭の中で考える事。
※事実に気が付くか気が付かないかによって、事実が有るか無いかに密接に関係する。