第九頌 光りと暗闇
西嶋先生の訳
暗闇は光りの中に実在している訳ではなく、したがってこの世の中のさまざまの事物は、ただありの侭に目の前に存在しているということが実情である。
光りが何かを見えるようにするという訳では決してない。何故ならば明るさは暗闇の破壊者でしかないのであるから。
中論を勉強しています
暗闇の状態は光りの中に実在していない。したがってこの世の中のさまざまの事物は、暗闇の状態であろうと光の中であろうと、ただありの侭に目の前に存在しているということが実情である。
光りが何かを見えるようにするという訳では決してない。何故ならば光による明るさは暗闇を明るくするものでしかないからである。
坐禅をしました
暗闇は光りの中に実在していない。つまり暗闇は光りがないから暗闇ではなく、暗闇は光りが有ろうが無かろと暗闇という独自の存在である。そして明るさは一方が一方を消すという関係ではなく、光りという存在があり暗闇という存在があるだけの事であり、暗闇と光りが少しづつ変化するのが明るさと暗さの現象である。したがってこの世の中のさまざまの事物は、暗闇や光りの移り変わりの中で只ありの侭に目の前に存在している事が実情である。
光りが何かを見えるようにするという働きがあるわけでは決してない。何故ならば暗い部屋の中で明かりを付けた時、暗闇の部屋を何かを見えるようにしたのは光りではなく明るくなったからである。つまり明るさは暗闇の破壊者である。
*暗闇は光りがないから生まれるのではなく、暗闇そのものとして存在している。
*明暗は暗闇と光りのバランスで成り立つている。暗闇と光りが同時に存在しており、それが少しづつ移り変わって変化することが明るい暗いの変化である。つまり暗闇が光りを消している訳でもなく光りが暗闇を消している訳でもない、暗闇と光りはお互いに独自の存在である。
*何かが見えるという事は、光りそのものは存在するだけであり只そこに事物がありその事物が見えるようになっただけである。事物があろうがなかろうが光りそのものは存在いしている。
西嶋先生の訳
暗闇は光りの中に実在している訳ではなく、したがってこの世の中のさまざまの事物は、ただありの侭に目の前に存在しているということが実情である。
光りが何かを見えるようにするという訳では決してない。何故ならば明るさは暗闇の破壊者でしかないのであるから。
中論を勉強しています
暗闇の状態は光りの中に実在していない。したがってこの世の中のさまざまの事物は、暗闇の状態であろうと光の中であろうと、ただありの侭に目の前に存在しているということが実情である。
光りが何かを見えるようにするという訳では決してない。何故ならば光による明るさは暗闇を明るくするものでしかないからである。
坐禅をしました
暗闇は光りの中に実在していない。つまり暗闇は光りがないから暗闇ではなく、暗闇は光りが有ろうが無かろと暗闇という独自の存在である。そして明るさは一方が一方を消すという関係ではなく、光りという存在があり暗闇という存在があるだけの事であり、暗闇と光りが少しづつ変化するのが明るさと暗さの現象である。したがってこの世の中のさまざまの事物は、暗闇や光りの移り変わりの中で只ありの侭に目の前に存在している事が実情である。
光りが何かを見えるようにするという働きがあるわけでは決してない。何故ならば暗い部屋の中で明かりを付けた時、暗闇の部屋を何かを見えるようにしたのは光りではなく明るくなったからである。つまり明るさは暗闇の破壊者である。
*暗闇は光りがないから生まれるのではなく、暗闇そのものとして存在している。
*明暗は暗闇と光りのバランスで成り立つている。暗闇と光りが同時に存在しており、それが少しづつ移り変わって変化することが明るい暗いの変化である。つまり暗闇が光りを消している訳でもなく光りが暗闇を消している訳でもない、暗闇と光りはお互いに独自の存在である。
*何かが見えるという事は、光りそのものは存在するだけであり只そこに事物がありその事物が見えるようになっただけである。事物があろうがなかろうが光りそのものは存在いしている。