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中論・15-6頌 釈尊の警告

第六頌 釈尊の警告

西嶋先生の訳
主観的な存在や客観的な存在を、あるいはそれと同じように存在や不存在を、

現実のものとして見たり見なかったりする人々は、釈尊が強く戒められた人々である。




中論を勉強しています
頭で考えた内容や感覚器官で捉えた内容を、あるいは何かが存在するとか存在しない事に関して、

この世の中の事として見ることは、釈尊の教える真理を見ていないという事である。

坐禅をしました
主観的な存在があるとか客観的な存在があるとか、何かが存在するとか存在しないとかと、現実を観ずに頭だけで考える人々がいる。

この様な人々は、釈尊の教える真理を見ていない人々である。



※頭で考え出す主観的な存在があるとか、感覚器官で捉える客観的な存在が在るとか、何かが存在するとかしないとか等と自ら何の行動を起こさなず、頭で考える事だけでこの世の中を観ている人々がいる。この様に現実を見ずに考える事だけで全てを解決しようとする人々は、釈尊の教えである真理に出会う事は絶対にあり得ない。

※東日本大震災の時、現地で津波に襲われたミュージシャンの女性が「自分はこれまで音楽で人が救えると信じていたが、音楽では人が救えない何の役にも立たない事が腹の底から解った」と語っていた。平和だからこそ呑気な事を言っていられるが、いざその時となると何も考えず行動する様になる、そうしないと死ぬしかない。







中論・15-5頌 存在と誕生

第五頌 現実世界の融合性

西嶋先生の訳

存在はしているけれども現実の存在ではないとか、何も存在していない場合とかにおいては、現実的なものは何もあり得ない。

存在はしていても、よその世界における存在を、人々はこの世の存在とは呼ばないのであるから。




中論を勉強しています
存在していると思われるけれども具体的でないとか何も存在していないという事は、実在しないものが現実にある事はない。

存在はしていると思われるけれどもこの世の中の存在でない場合、その存在をこの世の中の実在と我々は言わない。

坐禅をしました
我々は存在しているという事を知っている、そして存在していないという事も知っている。存在していないという事はいまだに実行されていない事であるし、いまだに具体化されていない事である。

我々は存在しているという事を知っている、そして全く別の存在も知っている。全く別の存在という事は全く別の存在と云う存在がこの世の中には存在しないという事であると人々は言っている。



※存在と云うものがないならば、存在しないと云うものもあり得ない。存在以外の存在をこの世の中にあり得ない存在と人々は言っている。  



中論・15-4頌 現実世界の融合性

第四頌 現実世界の融合性

西嶋先生の訳

主観的な存在と客観的な存在とが一つに重なった融合の状態を離れて、存在と呼ばれる抽象概念が更にもう一度動き出すということが、一体何処にあり得よう。

何故ならば、現実の世界における存在は、主観的な存在と客観的な存在との両方の中において、具体化されるものであるから。




中論を勉強しています
主観的な存在と客観的な存在とが一つに重なった状態を無くして、存在というものが何処にもう一度現われて来る事があり得よう。

何故ならば、現実の世界における存在は主観的な存在かまたは客観的な存在において存在しているものであり、具体化するものであるから。

坐禅をしました
もしも主観的な存在と客観的な存在とが一つに重なった抽象的な存在という考え方を放棄した場合、我々は存在という抽象的な考え方を何処にもう一度見つける事が出来るのだろうか。

主観的な存在があり、または客観的な存在がある、そして抽象的な存在と言われているものが現実に実行されることによって現われいて来る現実の存在がある。



*客観的な存在=客観的な事物(外界世界)からの刺激を感覚器官が受けてその感覚器官の興奮によって生まれる内容の事、

※主観的な存在と客観的な存在は共に言葉で説明している抽象的なものであって実在する訳ではない、現実の世界における存在は行いを実行する事によって具体化され実在となる。



中論・15-3頌 思想の感受作用に対する従属性

第三頌 思想の感受作用に対する従属性

西嶋先生の訳
主観的な存在が存在していない場合に、客観的な存在の存在するということが、将来といえども一体何処にあり得よう。

何故ならば主観的な存在は客観的な存在の中に含まれているからこそ、客観的な存在が話題の対象になることができるのであるから。




中論を勉強しています
頭の中で考え出した内容である主観的な存在は存在しないのであるから、感覚器官の興奮によって生み出される客観的な存在も今も将来も存在する事はあり得ない。

何故ならば主観的な存在と言えども客観的な存在によって生まれて来る訳であり、主観的な存在によって客観的な存在が語られる訳である。

坐禅をしました
我々が頭で考え出した内容である主観的な存在が実在していない事は明白なのであるが、我々の感覚器官が外界からの刺激を受け入れて考え出す客観的な存在もこの世の中には実在しない、客観的な存在は存在すると思っているだけであって現実には将来に亘っても存在しない。

何故ならば主観的な存在は感覚器官が刺激を受けた事によって生まれるものであり、客観的な存在は客観的な状況において主観的考えた事によって生まれたものであり、客観的な存在について議論できるほど抽象的なものであるからである。



※客観的な事物は存在するが、外部世界から受けた刺激によって生まれた存在は感覚器官の興奮であって客観的な事物ではない。

※客観的な存在が在るからこそ主観的な存在が在る訳である。つまり主観的な存在も客観的な存在も我々が考えた事によって生まれ出たものであり現実にこの世の中に実在している訳ではない。

※客観的な状態の中で主観的に考えた内容が客観的な存在である。例えば同じ食べ物なのにある人には臭くて食べられないのに、ある人には癖になるほど美味しいものがある。客観的な事物としての食べ物は実在するが、各人が思っている食べ物は実在していない。

※この世の中の存在というものは現在の瞬間における状態であって、決して無限の過去から無限の未来に向かって存続し続ける状態ではない。




中論・15-2頌 主観的な存在の非現実性

第二頌 主観的な存在の非現実性

西嶋先生の訳

主観的な存在はむしろ人為的に作られたものと呼ばれているのであるから、(その主観的な存在に関連して)一体何が将来といえども存続し続けるということがあり得よう。

仮にも主観的な存在が人為的に作られたものではないとするならば、(そのような主観的な存在は)人々から関心を持たれる存在ではなく、むしろ現実世界以外の存在であろう。




中論を勉強しています
主観的な存在は人間の頭脳で考え出されたものである、だから現在の瞬間において存在しないし将来においても存在する事はあり得ない。

もしも主観的な存在が人間の頭脳で考え出されたものでないとするならば、主観的な存在そのものが人々の考えの中に存在しなくなり、関心や論議すらも起きなくなってしまうし、むしろこの世の中以外の存在になってしまう。

坐禅をしました
主観的な存在が我々の考えの中から生まれて来たものであるとするならば、主観的な存在は今考え出されている事である、だからその主観的な存在が将来も存続し続けるという事はあり得る訳がない。

仮に主観的な存在が我々の考えの中から生まれ出たものでないとすれば、人々はその存在にあまり興味を持たないし、むしろこの世の中の問題として意識しないであろう。



※主観的な存在は我々の考えの中から今生まれ出ているものである。考えの中から今生まれ出た主観的な存在であるが、今考えている内容を将来も同じように考え続ける事は出来ないので、将来において今と同じ主観的な存在を存続し続けるという事は現実的ではない。例えば今悩んでいる事が将来に亘っても悩み続ける事ではない。

※主観的な存在は自分で考えた内容だからこそその存在に執着するのであるが、もしも主観的な存在が我々の考えから作られたものではないとするならば、我々はその存在にどうして興味を持つ事があるだろう、むしろその存在をこの世の存在として意識する事などあり得ないし絵空事としてしまうだろう。例えば自分の苦しみはこの世の中の全てと思っているが、他人の苦しみは他人事。




プロフィール

悠村隆道

Author:悠村隆道
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妻と2人暮らし。69歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より平成15年「授戒」を受け、平成20年「嗣書」を授かりました。    

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