中論・11-1頌 日常生活の浮き沈み

第一頌 日常生活の浮き沈み

西嶋先生の訳
終末がまだ気付かれていなかった以前から、偉大な聖者は語っておられる。

日常生活の浮き沈みは、最高のものに対しても引けを取らないものであり、われわれを縛り付ける手綱のようなものでもないし、後順位に属するものでも決してない。




中論を勉強しています
人生の終末である死期に気付が付く以前から、釈尊は次の言葉を語っていた。

我々の日常生活の浮き沈みは、この世の中における最高のものに対して決して引けを取らないものであり、牛が鼻に輪っかをはめられて引きずり回される手綱のようなものでもないし、われわれの人生において少しも後回しになるものでは決してない。

坐禅をしました
偉大な聖者である釈尊は、自分の人生の最後である死期に気が付き意識する以前から次にあげる言葉を語っておられた。

毎日色々な事がある我々の日常生活は、この世の中において最高の価値があると思われているものに対して決して引けを取るものではないくらい素晴らしいものである。確かに手綱の様なものかもしれないが、決してわれわれを縛り付ける厄介なものではない。そして我々の人生において後回しにいてよいとか大事にしなくても良いとかという問題では決してない。



※毎日坐禅をしていると自分の身の回りの事に興味が出てきて、あまり習慣や思い込みに振り回されなくなる。毎日が次から次へと自分でやるべき事が事現われて来る。「日常生活の浮き沈みは・・・・・。」この言葉こそが仏教思想そのものと思う。



中論・第十一章 人生の始期と終期に関する検証

第十一章 人生の始期と終期に関する検証に入る前に西嶋先生の解説です

われわれの人生には、その始期としての誕生があり、その終期としての死滅がある。人々は普通その始期である誕生を祝い、その終期である死滅をかなしむ。しかしその始期も終期も本来哲学的に観察すべきものであって、観念論や唯物論の立場から理由もなしに楽観したり悲観したりすることは、仏道の立場から考えた場合、決して正しい態度ではない。本章においては、その人生の始期と終期、つまり生と死とに対して仏道の立場から、その基本的な態度が論じられている。

抽象概念 : 生存
具体概念 : 死滅
現実概念 : 現在の瞬間




坐禅をしました
私は子供の頃から「自分は死んだらどうなるのだろう、何処に行くのだろう」という問題に常に悩まされてきた。本も色々と読んでみたがどれも私の悩みを解決してくれる事はなかった。そんな時、西嶋先生の正法眼蔵提唱録で坐禅を知り、坐禅をしてはじめて長年のこの悩みから解放された。今でも、ごくまれにこの悩みがフラシュバックする事があるが坐禅をするとすぐに安心立命してしまう。



中論・10-16頌 仏教の真意

第十五頌 仏教の真意

西嶋先生の訳
さまざまの精神的な内容もさまざまの現実的な内容も、それぞれさまざまの存在の中にあり、また個々ばらばらのものである。

さまざまの精神的な内容もさまざまの具体的な内容も、それらをそれらしいものとして常に見せている訳ではないけれども、君達のように仏教を信じていない人々は、(それらのさまざまの事物が持っている)意味や価値を完全に抹殺しようとしている。




中論を勉強しています
様々の精神的な内容も様々の具体的な現実もそれぞれ様々な存在の中にある、またそれぞれが個々ばらばらの事物として実在している。

様々の精神的な内容や様々の具体的な現実が必ずしもそれぞれ姿を現わしている訳ではない。仏教を信じない君達は様々のものが必ずしも姿を表わしていないことを理由にして、様々の事物が持っている意味や価値を無視しようとしている。

坐禅をしました
霊魂も真実も共にこの世の中において存在する、そして同じ様に個々ばらばらの存在の中にも霊魂も真実も共に存在している。

この世の中において霊魂も真実も存在しているし個々ばらばらの中にも霊魂も真実も存在しているのであるが、その事実は具体的に常に姿を見せている訳ではない。この事を理由にしてこの世の中において霊魂も真実も存在しているという事実を全く認めないという事は、目標を持つ訳でもなく又知ろうとする訳でもなくただ刹那的に生きているに過ぎない。



※我々はこの世の中を綜合的に見る必要があるが、それと同時にこの世の中の全てのものが個々ばらばらにものとして存在しているといういう見方も必要である。現実においては抽象的なものと具体的なものは別々のものではなく綜合的なものであるが、それと同時に現実を抽象的なものと具体的なものに分けて見る事も必要である。




中論・10-15頌 現実の火とその性質

第十五頌 現実の火とその性質

西嶋先生の訳
炎と燃焼とが一つに重なった現実の火に関する説明は、思考作用と感受作用とが一つに重なった現実の事態として捉われない態度で説明することができる。

全てのものは(それぞれの事物として)完全な性質を具えたものであるから、十二分以上の内容を持っており、織物と同じような複雑な内容その他に依存している。




中論を勉強しています
炎と燃焼とが一つに重なった現実の火は、具体的解釈と抽象的解釈が一つに重なった現実の事態として説明することができる。

この世の中の全てのものは完全なものであり、十分すぎるものを具えており、織物の模様の様な複雑な内容をしている。

坐禅をしました
現実の火は具体的に考えたり抽象的に考えたり
炎と燃焼が一つになっている現実の灯火は、感受作用に依る具体的な炎と思考作用による抽象的な燃焼という二つの作用が一つに重なった事態であると説明する事が出来る。

だから現実の世界において、全てのものが個々の事物であり、それらは完全なものであり、十分すぎるものを具えており、そして織物と同じように複雑な実体としてこの世の中に存在している。



※思考作用で現実を観ると綜合的なものの見方は難しくなりどうしても分析的になりやすいという特徴があり、感受作用で現実を観ると同じように綜合的なものの見方は難しくなりどうしても感受したこと・経験したことしか捉えられないという特徴がある。



中論・10-14頌 燃焼と現実の火

第十四頌 燃焼と現実の火

西嶋先生の訳
燃焼はやはり炎と同じではないし、炎が燃焼を離れて別の場所にあるということでもない。

炎がさまざまの燃焼を作り出す訳ではなく、炎が炎に依存している訳でもなく、さまざまの燃焼が具体的な火に依存している訳でもない。




中論を勉強しています
燃焼はやはり炎と同じではないが、燃焼と離れたところに炎がある訳でもない。

炎が燃焼を作り出す訳ではないし、炎が炎に作り出にされる訳ではない。頭で考える燃焼と頭で考える炎とが一緒にある訳ではない。

坐禅をしました
抽象的な燃焼と具体的な炎は同じではない。もしも燃焼と炎は別々のものだと考えたとしても、現実の灯火においては炎と燃焼が別々に離れて存在する訳ではなく燃焼と炎は一体となって存在する。

もしも抽象的な燃焼と具体的な炎が別々に存在すると考えられたとしても、炎が様々な燃焼を作り出すとか、炎が炎に依存しているとか、様々な燃焼が炎と一緒であるという関係ではない。つまり現実の灯火は頭で考える抽象的な燃焼やな具体的な炎というものとは全く別のものであり、現実の灯火は言葉では言い表せない存在である。



ブログ:正法眼蔵=坐禅 栢樹子の巻7より「燃焼と炎」を検証してみる。

趙州従諗禅師に対してある時僧侶が質問した。

僧問う:達磨大師がはるばるとインドから中国に仏道を伝えるために来られましたが、その真意(抽象的な燃焼)とは一体どの様に理解したらよろしいのでございましょうか。

趙州禅師言う:目の前に生えている庭先の栢樹子の木(現実の灯火)と何ら変わるところのない淡々とした事実だ。

僧問う:いや和尚さん、それはずるい。目の前にある事物(具体的な炎)を譬えにして説明されると私自身はなかなか納得がいきませんから、そういう目の前の事物(具体的な炎)ではなしに、もっと理論的にご説明をいただきたい。

趙州禅師言う:拙僧は庭先の栢樹子の木(現実の灯火)と言ったけれども、庭先の栢樹子の木を目の前の事物と見て、その事物(現実の灯火)を使って(具体的な炎を)説明したつもりはない。
    
僧問う:それでは達磨大師がインドからはるばる中国に来られた真意(抽象的な燃焼)はどの様なものでありましょうか。

趙州禅師言う:目の前の栢樹子の木(現実の灯火)だ。

この話を自分なりに解釈してみるが、
ある僧が師匠である趙州禅師に達磨大師が中国に来た事に対して抽象的な答えを求めて質問をした。趙州禅師はその事に対して目の前に在る栢樹子の木と同じ現実であると答えた。

しかし、ある僧は勘違いをして趙州禅師の答えに対してそんな具体的な例えを聞いているのではなく達磨大師が中国に来た事に対して抽象的な答えを求めて質問しているのです。趙州禅師はその事に対して拙僧は庭先の栢樹子の木と同じ現実だ言ったのだであって、決して庭先の栢樹子の木で具体的な説明したつもりはない。

再度ある僧は師匠である趙州禅師に達磨大師が中国に来た事に対して質問をした。趙州禅師は再度目の前の栢樹子の木だと答えた。私なら達磨大師がインドからはるばる中国に来られた時に生えていた目の前の栢樹子の木だと親切に答えてるだろう。




プロフィール

悠村隆道

Author:悠村隆道
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妻と2人暮らし。68歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より平成15年「授戒」を受け、平成20年「嗣書」を授かりました。    

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