中論・7-20頌 現実的なものと抽象的なもの

第二十頌 現実的なものと抽象的なもの

西嶋先生の訳
現実の現象が現に現われているのと同じ程度に、抽象的なものは全く何の拘束も受けていない。

現実的なものも抽象的なものもまだ存在していない以前に、既に出来上がったものが目の前に現われている。




中論を勉強しています
現実の現象が何の拘束もなくこの世の中に現われている。それと同じ程度に頭で考えた内容は全てにおいて何ものにも拘束を受けることはない。

現実的なものも抽象的なものもまだ現実に存在していないのに、そんなものには関係なく現実のこの世の中は既に目の前に存在している。

坐禅をしました
現実の現象が全く何にも拘束も受けることなく目の前に現われている。それと同じ程度に現実には存在しない抽象的なものは全く何にも拘束も受けることはない。

現実的なものとか抽象的なものとかの存在を考える以前に、既に現実は目の前に存在しその事実は疑いようがない。



*存在していない=頭で考えている状態

※現実の現象(姿・形)は独自の存在であり、何かによってその存在が否定されたり拘束されたりすることはない。
※現実的なものも抽象的なものも客観世界では既に存在しており、急に何処かから現われたものではない。
※頭で考えれば様々な抽象的なものがあるけれども、客観世界があるという事実そのものが我々の生きているこの世の中である。




中論・7-19頌 この世の中と現象世界との不一致

第十九頌 この世の中と現象世界との不一致

西嶋先生の訳
もしも上記とは違った形がこの世の中を発現させている場合には、この現象世界が非常に不安定な世界になってしまう。

そこにおいては、まだ発現していないものが現に現われていることになってしまい、したがって全てのものが既に現われて来ていることになってしまう。




中論を勉強しています
目の前に現われている事実そのものがこの世の中であるのだが、もしもそうではなくこの世の中とは違った形がこの世の中を発現させている場合には、この現象世界が合理性のない世界になってしまう。

その様な世界においては、まだ現れ出ていないものが現に目の前に現われている事になってしまう。そうするとこの世の全てのものもその様な状態になってしまうので、この世の全てのものがまだ現われていないのに既に目の前に現われている事になってしまう。

坐禅をしました
目の前に現われている事実そのものがこの世の中であるのだが、もしもその事実を認めずこの世の中は常に何かが新しく生まれ出ていると解釈しているならば、この世の中の現象世界が本当にあるのかどうか分からない世界になってしまう。

その様な世界においては、まだ何も現われ出ていないのに既に何かがもう現われているという事になってしまう。したがってまだ現れ出てないはずの全てのものが既に現われて来ている事になってしまう。



*発現=今までなかった何かが新しく現れ出ること
*不安定な世界=基本のない世界。理屈に合わない世界。無くなるかもしれない世界。

※いくら現象が我々の目に現われたり現われなかったりと見えたとしても、それはさまざまのものが現在の瞬間の状態として我々の目の前にあるだけの事であり、新たに何かが現われたり何処かに消えたりする訳ではない。我々はこの客観的な世界をありのままにそして素直に捉えるべきである。
※この世の中は安定した世界(永遠の世界)だが、不変の世界(変化のない世界)ではない。




中論・7-18頌 現象と綜合的な客観世界

第十八頌 現象と綜合的な客観世界

西嶋先生の訳
現に目の前に現われている事実そのものが、現象であるということが分かって来ると、この綜合的な客観世界が正に現われて来る。

この世の中が現象として現われて来ると、現象がむしろ優先して捉えられる。




中論を勉強しています
現実に我々の目の前に現われている事実そのものが客観世界の現象であるという事が理解できるようになると、我々の住むこの綜合的な客観世界が正に現われて来る。

この世の中の諸々が現象として現われて来ると、観念的に捉えている客観世界より具体的な現象の方がむしろ優先して捉えられるようになる。

坐禅をしました
現実に我々の目の前に現われている事実そのものが、現在の瞬間が次々と変化する現象であるという事が理解できるようになると、我々の住むこの綜合的な客観世界がどの様なものかという事が解って来る。

この世の中が現在の瞬間が次々と変化する現象であると理解できると、現在の瞬間が次々と変化する現象がこの世の中そのものなのだと捉えるようになる。



*現われて来る=明らかになる
頭で考えた内容が客観世界に加わる・減ずる・生まれる・消滅するという事はあり得ない。客観世界に主観の内容が入り込む余地はない。

※現象=客観世界は現在の瞬間における存在であり、そして次々と少しづつ移り変わっていく。
この世の中の現象として時間の流れの中で眺めてみると何かが生まれたれ消えたりしている様に見える。しかし、その様な状況・現象は現在の瞬間における実情が次々とそして少しづつ変化しているに過ぎない。だから生まれたり消えたりする様な現象が見えたとしても、それは錯覚であり全く新しいものが現われたり突然消え去ることはない。




中論・7-17頌 現象と存在

第十七頌 現象と存在

西嶋先生の訳
この世の中にはあり得ないものが、少しでも存在するものと考えられるような事態は、絶対に何処にも認めることができない。

このような状況の中では、現実的なものも一体何であるかがはっきりしなくなり、存在という言葉でさえ非現実的なものとして現われて来る。




中論を勉強しています
この世の中には絶対にあり得ないものが、少し位存在するのではないかと考える例があるが、しかしその様なものはこの世の中の何処にも存在しない。

もしもこの世の中にはあり得ないものが存在したならば、現実的なものが現実ではないのではないかと思えたり、存在という言葉でさえ抽象的な表現になってしまうだろう。

坐禅をしました
この世の中には絶対にあり得ないものが、もしかしたら少し位存在するのではないかと考える例がいくらでもあるが、いくら考えだしてもその様なものは何処にも存在することは絶対にあり得ない。

もしもこの世の中にはあり得ないものが少し位存在する状況においては、明確で現実的なものでさえ一体何であろうと思ったり現実ではないのではないかと思えたり、そして存在という言葉でさえ頭で考える抽象的な表現になってしまうだろう。

※巻頭の四行詩に「隠されたものではない」とある。
この世の中には隠されたものは何もない。全てが明らかであると言う。
「何処かにこの世の中には絶対にあり得ないものが、もしかしたら少し位存在するのではないか」という考え方は間違いである。
しかしにその様に考えた事が実在であったとしたら、その事実は我々の目の前の存在であり現実である。その現実は我々が気が付く以前から既に存在していたものであり、只我々にはその存在が存在していなかった様に見えただけである。
やはり「隠されたものは何もない」である。
但し、この客観世界においてその存在は必ず具体的で客観的なものであり、決して抽象的で主観的なものではない。


中論・7-16頌 個々の事物の実状

第十六頌 個々の事物の実状

西嶋先生の訳
個々の事物が一つ一つ明白に存在しているという事実がこの世の中であり、そのような世の中が落ち着いたものとして、主観的にあると考えられている。

したがって現に目の前に見えておりしかも落ち着いている状態が、現に目の前にみえているものの実状である。




中論を勉強しています
我々の目の前に個々の事物が一つ一つ独立して確かに存在しているという事実がこの世の中そのものである、しかもそのような状態の世の中が確かに存在していると私たちは考えている。

したがって個々の事物が現に我々の目の前に見えていてしかも確かに存在する状態が、現実に我々の目の前にみえているものの実態である。

坐禅をしました
客観世界を眺めた見ると、様々な事物が具体的な状態で我々の目の前に見えている。しかもそれらはそれぞれに独立した状態
で存在している。そしてそのような世の中が確かなものであると私たちは考えている。

したがって次々と移り変わる客観世界ではあるが、個々の事物が現に我々の目の前に見えていてしかも確かに存在する状態が、現在の瞬間における確かな実状である。

※この世の中を現在の瞬間だけと考えるならば「事物には生起、消滅はない」と解釈できる。しかし現在の瞬間が次々と移り変わって繋がっていると考えるならば「次の瞬間において事物はたえまなく生起、消滅する」と解釈できる。





プロフィール

悠村隆道

Author:悠村隆道
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妻と2人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事していた愚道和夫老師より平成15年「授戒」を受け、平成20年「嗣書」を授かりました。    

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