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中論・19-2 現象と現在の瞬間 

第二頌 現象と現在の瞬間

西嶋先生の訳
現在の瞬間がまだ到来していない時点とは、現在の瞬間における停滞がまだ具体化していない時点であり、

現在の瞬間がまだ到来していないという事態は、恐らく言葉では表現することが全く不可能な事実であろう。




中論を勉強しています
現在の瞬間がまだ到来していない時点とは、現在の瞬間の状態を色々と予想をするがまだ具体的になっていない瞬間である。

現在の瞬間がまだ到来していないという状態において、はたしてどの様な方法で現在の瞬間がまだ到来していないという状態を考えれば良いのであろう。

坐禅をしました
現在の瞬間がまだ現実になっていないと云う事はまだ現在の瞬間にたどり着いていない過去の時間の中にいると考えられる。現在の瞬間がまだ到来しない時点とは、何時までも到来しない時点に存在する訳ではなく、いずれは現在の瞬間が具体化する時点である。

現在の瞬間がまだ現実になっていないと云う事はまだ現在の瞬間にたどり着いていない過去と考えられる。もしも何時までも現在の瞬間が到来しないのであれば、どの様な方法で現在の瞬間がまだ現実になっていないと云う事態を考えれば良いのだろう。



※事実は現在の瞬間の中にあり現在の瞬間があればこそ事実があり現実がある。だから未来に縛られて心配する必要はないし過去に縛られて悔やむ必要ない。未来を心配し過去を悔やむ事は現在の瞬間の事実ではない訳だから何の意味も価値もないと言える。我々が与えられた現在の瞬間において一所懸命に正しく生きる事に意味があり価値があると考えられる。



中論・19-1 現象は現在の瞬間における事実

第一頌 現象は現在の瞬間における事実

西嶋先生の訳
現在の瞬間のまだ到来していない時点が過去と考えられるのであるから、現在の瞬間がまだ到来していないという事実は、時間の経過が過去の時の中にあるということを意味する。

現に目の前に見えている現象が、到来したものでは決してないという事実は、過去の時点において既に予見されなければならない筈である。




中論を勉強しています
現在の瞬間にまだ「時」が到来していない瞬間は過去と考えられる、だから現在の瞬間がまだ到来していないという事実があるならば、その瞬間はまだ過去の「時」の中にあると思われる。

眼の前に見えている現実の現象がいまだにやって来たものではないと云う事実は、現在の瞬間は過去の時点において予定された未来である筈である。

坐禅をしました
現在の瞬間がまだ現実になっていないと云う事はまだ現在の瞬間にたどり着いていない過去と考えられる、もしも現在の瞬間に至っていないという事実があるならば、間違いなくその瞬間は過去の瞬間の中にあるのだろう考え付く事は云うまでもない。

現在の瞬間がまだ現実になっていないと云う事実は、現在の瞬間というものは過去の瞬間から見ればいずれは至る未来という事になる。



※一般的に過去とは過ぎ去った時間と思われているが、見方を変えれば現在の瞬間にまだ到達していない時間とも考える事も出来る。だからある瞬間が現在の瞬間に到来しつつあると云う事実があるならば、そのある瞬間は現在の瞬間から見れば過去の時間帯の中にあるという事になる。又、過去から見れば現在の瞬間は約束された未来という事になる。

※現実は何処からか来たものではないし何処かに消え去るものでもない事は明確な事実である。この事実は過去において事実であるし、現在の瞬間においても事実であるし、、そして未来においても変わる事のない事実である。



中論・第十九章 「時」に関する検証

第十九章 「時」に関する検証に入る前に西嶋先生の解説です

近代物理学においては空間と時間とが極めて重要な基準の役割を果たしているけれども、インドにおいては既に原始仏教の時代以前から空間と時間との重要性について気付かれていた。特に仏教においては現在の瞬間における行為というものを中心にして哲学が説かれていたところから、時間につても現実における時間は、過去、現在、未来というように横に並んだ時間系列としての時間ではなく、行いの行われている現在の瞬間が現実の時間であることが主張された。そこで本章においてはそのような意味での「時」が論じられており、時間と呼ぶよりは、「時」と呼ぶ方が正しいような内容を持っている。道元禅師の正法眼蔵における「有時」の巻きにおいても、「有」すなわち存在と「時」すなわち時間とは切り離して論ずることのできない同一事実の両側面であるという事情が語られているけれども、本章においても、それと極めて酷似した内容が述べられている。

抽象概念 : 時間
具体概念 : 時間の長さ
現実概念 : 現在の瞬間




有時=頭で考えている時間ではなく、実際に存在している時間。
※行いは必ずこの有時(頭で考えている時間ではなく、実際に存在している時間)の中で行われる。有時は現在の瞬間の事でもあるから、行いは現在の瞬間においてのみ行われるとも言える。そして有があるから時があり、時があるからこそ有がある。

※過去を思い出す事は出来るがそこに生きる事は絶対にできないし、現在を認識する事は出来るがその認識は現在の瞬間ではないし、そして未来を想像する事は出来るがその夢は現実ではない。



中論・18-12 霊魂と仏教哲学

第十二頌 霊魂と仏教哲学

西嶋先生の訳
(霊魂という考えは、)真実に目覚めた仏陀と呼ばれる人々の間では姿を現わしておらず、理論を大切にする声聞乗と呼ばれる人々の間でもやはり滅びてしまっている。

環境を大切にする縁覚乗と呼ばれる人々の間においてのみ、単に知識だけの問題として、一般の情勢とは遊離した形で推進されている




中論を勉強しています
(霊魂という考えは、)真実に目覚めた仏陀と呼ばれる人々の間では生まれて来ない、理論を大切にする声聞乗と呼ばれる人々の間ではその存在を否定している。

そして環境を大切にする縁覚乗と呼ばれる人々の間では霊魂に関心を持つことは意味がない事と云う正しい洞察が立ち現れている。

坐禅をしました
(霊魂という考えは、)真実に目覚めた仏陀と呼ばれる人々にとって霊魂は存在しないものであり、当然霊魂の事を考えたり議論する事はあり得ない。理論を大切にする声聞乗と呼ばれる人々にとって霊魂に対する関心が余りないものであり、当然霊魂に関して存在するか存在しないかを考えたり議論する事を今では止めてしまっている。

そして環境を大切にする縁覚乗と呼ばれる人々にとって霊魂は無視する存在であり、当然霊魂は人々の意識としては認めるが霊魂を考えたり議論する事は何の価値もない事であると云う正しい洞察が主張され続けている。



※この「第十二頌 霊魂と仏教哲学」は非常に難解でまだまだ徧参する必要がある。

※仏道において霊魂は無いものであり、否定するものであり、拘らないものであり、そして霊魂の存在は全く認めていない事が仏道における正しい洞察である。

※声聞乗=釈尊の教えを理論だけ勉強し理論的に問題を考える立場、だからこの世の中の存在を理論的立場から懐疑的・否定的になりやすい。

※縁覚乗=一般的な人間社会から遠く離れて、自然の中で孤独に生活しながら釈尊の教えを勉強しょうとする立場、だからこの世の中に対して協調的な生き方ではなくなりやすい。


中論・18-11 現実の世界と神々の存在

第十一頌 現実の世界と神々の存在

西嶋先生の訳
二つ以上の目的を持ったものではなく、多数の目的を持ったものでもなく、途切れ途切れのものでもなければ、永遠のものでもない。

そのようなこの世の中が、さまざまの神々の内部に含まれているというような考え方は、真実を得られたたくさんの人々によって、処罰に価するものとして評価された。




中論を勉強しています
この世の中はこの世の中以外に存在しない、またこの世の中はただ単に存在するだけである。この世の中は瞬間瞬間だけの存在ではないし、また何も変わらな永遠の存在でもない。

この世の中には様々な習慣や思い込みがあるけれどにも、真実を得られたたくさんの人々によってこの世の中の存在は疑う事が出来ない真実であると云われた。

坐禅をしました
この世の中と同じ様な別の世の中が何時かとか何処かにとか探し回っても決して他に存在する事はない。またこの世の中が存在するのはただ単に存在するだけであって、この世の中が存在する事実以外に様々な存在理由が他にある訳ではない。この世の中は瞬間瞬間の存在ではあるが瞬間瞬間が途切れることなく繋がっている存在でもあるし、またその瞬間瞬間が何も変わらずに永遠に続く存在でもない。

ここに示されたこの世の中に対する教えは、様々の神々のそして様々の真実に目覚めた人々の決して変わる事のない我々に対する教えである。



※今武漢ウイルスの脅威で家の中に留まる様に世界中で云われている。日本でもいろいろな施設に政府が閉鎖の要請をしているが、憲法上のを問題がありいくら武漢ウイルスが蔓延しても決して禁止処置をする事は出来ない。大阪では開店しているパチンコ屋に市長が閉鎖を要請しても無視され、お金を握りしめた人たちで中々の賑わいらしい。
今こそ我々日本国民は何処にも出かけず家庭にいるべき時です、家に居たくても様々な理由でいられない方々もいます。そうでない方は不要不急の外出は避けましょう。私は毎日朝晩の一人坐禅のおかげで長い間外出しませんが毎日安息な日々を過ごしています。
だから、私は一人坐禅を勧めます。
詳しくは↓↓↓
リンク     正法眼蔵=坐禅
カテゴリ   一人坐禅のやり方 (2)



プロフィール

悠村隆道

Author:悠村隆道
ご訪問ありがとうございます。
70歳。自営業。妻と二人暮らし。
毎日(朝・晩)坐禅を自宅でしています。
師事した愚道和夫老師より平成15年「授戒」を受け、平成20年「嗣書」を授かりました。    

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