中論・8-2頌 現実の行いと行為および行為をする人

第二頌 現実の行いと行為および行為をする人

西嶋先生の訳
現実の世界における実行が実際にない限り、行為という抽象概念は、恐らく現実の行いをしていることとは何の関係もないであろう。

現実の世界における実行が実際にない限り、行為をする人も恐らく行為をすることと無関係になってしまっているであろう。




中論を勉強しています
現実の世界において行いが実際になされないならば、抽象的概念である行為という言葉は、恐らく現実の行いをしている事とは全く別の事である。

現実の世界において行いが実際になされないならば、抽象的概念である行為をする人という言葉も、恐らく現実の行いをする事とは別の事となってしまっているであろう。

坐禅をしました
現実に行いをしないで頭の中で行いを考えたならば、行いを意味的に考える「行為」というものは、現実に「行い」をしている事とは決して同じではない。それは行為と言う言葉だけの事であり、現実の行いとは異なる。

そして現実に行いをしないで頭の中で行いを考えたならば、行為をする人と言う「動作」も実際に行いをする事と全く無関係である。それは動作の事を行為をする人という言葉だけの事であり、現実の行いをする事とは異なっている。



*行為をする人=動作
*行為をする=行いをする

※行為と言うものは実際に実行があって始めて現実の行いと一つになれるし、行為をする人は実際に実行があって始めて現実の行為をする人と一つになれる。頭の中でいくら「私はやっている、実行している」と繰り返しても、現実に行為をしなければ、頭の中で「私はやっている、実行している」とは考えてない人や何もしていない人と自分は違うといくら主張しても何も考えてない人や何もしていない人と全く同じである。



中論・8-1頌 行為と動作と現実

第一頌 行為と動作と現実

西嶋先生の訳
現実に在るものが動作であり行為であって、現実に在るものがこの世の中を作り出す訳ではない。

動作は抽象的なものでは絶対にあり得ないし、行為という抽象概念はあくまでも抽象的な世界を追い求めるように宿命付けられている。




中論を勉強しています
現実に存在するものは行いの外見である動作であり行いの抽象的概念である行為である。今現実に存在する動作と行為が改めて新しくこの世の中を作り出す訳ではない。

動作というものは行いの外見であるので抽象的なものでは絶対にあり得ないし、行為というものは行いを抽象的に捉えているので全てを抽象的に捉える様になることは避けられない。

坐禅をしました
現実に存在するのは行いであるがある時は行いの外見である動作であり、ある時は行いの抽象的概念である行為である。既に行いはこの世の中は実在しているのだから、この世の中に実在するものが改めて新しくこの世の中を作り出す事はない。

動作というものは行いの外見であるのから具体的なものである、だから抽象的なものでは絶対にあり得ない。そして行為というものは行いを説明的に示す抽象概念である、だからどうしても具体的なものから離れて自分に都合の良い自分で考えた世界を追い求めてしまいやすい。



*在る=存在する
*有る=所有する
*動作=行いに対する行いの外見
*行為=行いに対する行いの意味から見た抽象概念
*行い=動作と行為が一つに重なっている事実

※先生の話
行いを意味の上で見るならば「行為」、行いを物質的な動きという面から見るならば「動作」である。行いは頭で考えれば行為と動作と二つに分かれるが、現実の行いは行為と動作とが全く一つに重なった事実である。



中論・第八章 行為と動作との融合に関する検証

第八章 行為と動作との融合に関する検証に入る前に西嶋先生の解説です。

この第八章から第二十一章までの十四章が、仏教哲学の中心である行為の哲学に関する解説に使われている。一般的に云って仏教哲学の中心は、現実の世界における行為にあると考えることができる。欧米文化の世界においては、人間がものを考える能力を基礎として、この世の中を専ら精神的な世界と考える観念論と、人間がさまざまの外界の世界からの刺激を感受する能力を基礎としてこの世の中を専ら物質的な世界として受け取る唯物論とが、それぞれ膨大な規模と驚異的な精緻さとをもって発達し、現にわれわれは日々その絶大な恩恵を享受しているのであるが、仏教においては、観念論と唯物論とが持つ本質的な一面性に気付き、その是正として物心一如の現実主義を主張した。したがって行為という問題に関しても、観念論者は行為という抽象概念に対する関心が深く、唯物論者は動作という行いの外見を問題にする。しかし本章においては、仏教哲学の中心にある現実の行いに関連して、現実の行いは行為と動作とが別々に存在する理性や感性の世界には存在せず、行為と動作とが一つに重なった現実と呼ばれ、行いと呼ばれるものとして存在することを主張している。

抽象概念 : 行為 
具体概念 : 動作 
現実概念 : 行い




坐禅をしました
※「我々の人生において不幸に出会う事は避けられないものであるけれども、もしも不幸に出会ってしまった時に我々はどの様にすれば宜しいのでしょうか」と先生にお聞きした事があった。
すると先生が「祈ったり拝んだり嘆いたり学問をしても何の解決にもならない。毎日の生活を規則正しく生活する事が悔しさや諦めや苦しさから解放されるただ一つの解決法です」と教えてくれたことを思い出しました。
その時は先生の言っている事が良く分からなかったのですが、その後朝晩毎日坐禅をすればよいのだと言う事に気が付きました。



※我々は現実の世界と現在の瞬間における行いとは別々のものだと考えてしまいやすいが、仏教においては瞬間瞬間における行いそのものと、その行いと同時に実在する客観世界は別々のものではなくたった一つの現実として捉える。したがって現実というものは行いの抽象的な概念である行為ではないし、行いの外見である動作でもない。



中論・7-34頌 現実の世界と言葉に依る説明

第三十四頌 現実の世界と言葉に依る説明

西嶋先生の訳
たとえば幻想であるとか、夢であるとか、ガンダルヴァと呼ばれる架空の都市とかは、

生起であるとか継続であるとか消滅であるとかと同じように、単に言葉による説明に過ぎない。




中論を勉強しています
幻想とか夢とかガンダルヴァと呼ばれる架空の都市とかは、抽象的なものであり言葉による説明に過ぎず実在しない。

現在の瞬間の出来事は現在の瞬間の事実なのに、例えば生起であるとか継続であるとか消滅であるとかと言葉にするとあたかも抽象概念が実在している様に錯覚するが、それも言葉による説明に過ぎず実在しない。

坐禅をしました
この世の中は幻想であるとか、夢であるとか、ガンダルヴァと呼ばれる都市が代表する蜃気楼の様なものと云われ、この世の中は実在していないと云われて居る。

しかし現実において、この世の中は既に存在しており目の前に広がる安定した世界である。この世の中は実在しているのであるが、この世の中を言葉によっていくら説明しようとしても、とても説明出来るものではない。



*ガンダルヴァ(乾闥婆 けんだつば)
インド神話においてインドラ(帝釈天)に仕える半神半獣の奏楽神団。蜃気楼の事をガンダルヴァの居城に喩え「乾闥婆城」(gandharva-nagara)と呼ぶ。

※言葉によってこの世の中の存在を説明しようとすると全てが抽象的なものになってしまう。だからこの世の中は抽象的なものではないかと考えてしまい、この世の中は実在しないと主張してしまう。しかし現実においては、この世の中の客観的な事物を五の感覚器官が感受するという働きがある事は疑う事が出来ない事実である。だからこの世の中が存在しないという主張は錯覚であり、この世の中が実在する事が現実である。

※事実を言葉で説明する事は出来るがその言葉は抽象的なものであり、事実は実在するのであるが言葉で説明するものは実在するものではない。



中論・7-33頌 綜合的な客観世界と現実の世界

第三十三頌 綜合的な客観世界と現実の世界 

西嶋先生の訳
綜合的な客観世界は、生起、継続、消滅(という時間的な推移)の中には実在し得ないし、現実的でないものの中にも実在し得ない。

綜合的な客観世界がまだ充分に現実的なものになっていない場合には、綜合的な客観世界でない世界が実現するということも、将来といえども決してあり得ない。




中論を勉強しています
生起、継続、消滅は現在の瞬間の具体的な事実として綜合的な客観世界である。しかし生起、継続、消滅を時間的な推移の中において考えるならば綜合的な客観世界は生起、継続、消滅(という時間的な推移)の中に実在しない。そして頭で考えたものの中にも綜合的な客観世界は実在しない。

綜合的な客観世界がまだ具体的に実現していない場合には、いくら想像した綜合的な客観世界を実現させようとしても今直ぐに目の前に現われる事は決してない。

坐禅をしました
まず綜合的な客観世界は現在の瞬間の実在である、そして生起、継続、消滅は現在の瞬間の事実であるから、綜合的な客観世界は生起、継続、消滅に実在している。しかし生起、継続、消滅を時間的な推移と考えるとその存在は頭の中で考えた想念であるから綜合的な客観世界は、生起、継続、消滅(という時間的な推移)の中には実在し得ない。そして頭で考えたもの具体的でないものの中にも綜合的な客観世界は実在し得ない。

綜合的な客観世界がまだ具体的に実現していないとしても、現実の綜合的な客観世界に変わって自分の考えた世界が具体的に現われるという事は決してあり得ない。



※綜合的な客観世界は五の感覚器官で感じられる具体的なものであり、この世の中においては具体的でない綜合的な客観世界というものは実在しない。
※五の感覚器官を通じて外界の刺激を感受出来るからこそ、「この世の中は実在する」と主張できる。



プロフィール

悠村隆道

Author:悠村隆道
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妻と2人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より平成15年「授戒」を受け、平成20年「嗣書」を授かりました。    

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