中論・9-6頌 感受作用と瞬前

第六頌 感受作用と瞬前

西嶋先生の訳
一切のものに関連して、見ることその他のさまざまの感受作用に関連して、瞬前が認識の対象になるということは絶対にあり得ない。

見ることその他さまざまの感受作用の中においても、別のものに依り別の時点において、瞬前が先行させられているのである。




中論を勉強しています
一切のものを用いようと、または視覚やその他の感受作用を用いようと、瞬前が認識の対象になるということは絶対にあり得ない。

視覚その他さまざまの感受作用の中においても、感受作用以外のものの中においても、現在の瞬間ではない別の瞬間である瞬前は現在の瞬間よりも先行させられているのである。

坐禅をしました
直観や行いに頼ろうと、または視覚などのあらゆる感覚器官の感受作用に頼ろうと、我々は瞬前を認識する事は絶対に出来ない。

しかし、視覚その他さまざまの感受作用をもっと鋭くし、直観や行いをもっと高め、そしてやがて来る瞬間である瞬前を現在の瞬間に限りなく近づけたならば、我々は本当は実在していないはずの瞬前を感じる事が出来る。



※瞬前は予感をする事は出来るが、認識することは絶対にできない。だからこの世の中には未来を予想する人はいくらでもいるが、未来を言い当てる人など誰一人としていない。




中論・9-5頌 瞬前の合理性

第五頌 瞬前の合理性

西嶋先生の訳
何かに依って何かが前進しているのであり、何かに依って何かが前進させられているのである。

何もないにも拘らず何かが何処かにあるのであり、何もないにも拘らず何処かで何かが作られているのである。




中論を勉強しています
この世の中は何かによって何かが次へと動いているのであり、何かによって何かが次へと動かされているのである。

この世の中は何もない様に思えるが現実には何かが何処かにあるのであり、何もない様に思えるが現実には何処かで何かが作られているのである。

坐禅をしました
もしもこの世の中がないならば、この世の中において具体的な変化を目の前で見ることは出来ないはずである。しかし現実において我々は常に変化し続ける世界に生きている。だからこの世の中はこの世の中自らによってこの世の中を先へ進めるのであり、この世の中の何かによってこの世の中が先へ進まさせられているのである。

もしもこの世の中がないならば、この世の中において何も存在しないはずである。しかし現実においては我々はこの世の中において客観的な事物の存在を認めざるを得ない。だから頭で考えるとこの世の中は何もない様に思えるが現実には瞬前が何処かにあるのであり、何もない様に思えるが現実には瞬前で何かが作られているのである。



*何か=言葉では表現できないこの世の中の事。

正法眼蔵 法華転法華
 法華転法華というのは、我々の住んでいる素晴らしいこの世の中がこの世の中それ自体を回転させているという意味であって、そのことはどういうことかというと、我々の住んでいる世界というものは、誰が動かしているかは知らないけれども、とにかくそれが時々刻々と変化、回転している。それと同時にこの世の中に生まれて来た我々がこの世の中を回転させている。しかもその時々刻々と変化している世界というものが実に素晴らしいというのが法華転法華ということの意味であります。

※見えない手で自分は回されているが、それと同時に自分がこの世の中を回している(我々は生かされているだけではない)




中論・9-4頌 感受作用以前の状態

第四頌 感受作用以前の状態

西嶋先生の訳
見ることその他のさまざまの感受作用が、まだ全く存在していない場合でも、具体的なさまざまの事物はそれなりに安定した状態として存在している。

それらのものは将来といえども正に存在するのであって、もしもそれらのものが存在していないならば、ゆったりと休めるような状況が存在することもない。




中論を勉強しています
見ることその他のさまざまの感受作用の働きがまだ全く起きていない場合でも、この世の中の具体的なさまざまの事物は確かにな事実として存在している。

確かなものは将来といえども正に存在するものであって、もしも確かなものが存在していないならば、この世の中は実在するという事があり得なくなる。

坐禅をしました
たとえ見ることその他のさまざまの感受作用の働きがまだ全く起きていないとしても、感受作用を起こさせる様々な事物がないわけではない。瞬前において当然のように具体的な様々の事物は既に存在している。

瞬前は確かなものとして存在するのであって、もしも瞬前という確かなものが存在しないとするならば、この世の中が確かに存在すると言えなくなってしまう。



*安定した状態=現実

※もしも具体的な事物が存在しないならば、この世の中の存在は疑わしくなる。逆に具体的な事物が存在するならば、この世の中の存在を何の疑いもなく信じることが出来るし、この世の中の存在を信じなくても当然の様にこの世の中は存在する。

※具体的なさまざまの事物がこの世の中に存在しているならば、この世の中が有るとか無いとかと考えたり議論する必要はない。




中論・9-3頌 瞬前の実状

第三頌 瞬前の実状

西嶋先生の訳
見ることや聞くことその他の中に、したがって正にさまざまの感受作用の中に、

秩序正しい状態以前からさまざまのものが存在しており、そこにおいては現実が現実以外のものに頼ることなしに見出される。




中論を勉強しています
見ることや聞くことその他の五感によるさまざまの感受作用の中に

秩序正しい状態である現実が存在する以前すなわち瞬前において様々のものが存在している。現在の瞬間において我々は考える事や感受作用に頼らなくても現実をありのままに見出す事が出来る。

坐禅をしました
見ることや聞くことその他の感受作用が存在する事により現実が実在していると言える、だから

秩序正しい状態である現実が存在する以前から既に同じような様々なものが瞬前という状態で存在しており、現在の瞬間において我々は考える事や感受作用に頼らなくても現実をありのままに見出す事が出来る。



*現実以外のもの=考える事や感受作用
*そこにおいては=現在の瞬間

※瞬前は現在の瞬間に限りなく近いのであるから、現実には存在しない瞬前の状態を我々は感じられるし予感する事が出来る。



中論・9-2頌 瞬前と実在

第二頌 瞬前と実在

西嶋先生の訳
見ることその他の感受作用が認識がされない場合には、一切のものが将来といえどもこの世の中に存在することがあり得ないのであるから、したがって逆に、

存在の中においてもあるいは現在の瞬間の直前においても、現実が秩序正しい存在として実在している以外にはあり得ない。




中論を勉強しています
もしも我々の感覚器官の感受作用が一切起きない状態にあるとすれば、現在のみならず将来においてもこの世の中には一切のものが存在する事はあり得ない。

従って逆に言うならば、ほんの僅かでも我々に見たり聞いたりの感受作用が起きるとするならば、この世の中は現在の瞬間あるいは現在の瞬間の直前においても現実が秩序正しい存在として実在いるという事実以外には考えられない。

坐禅をしました
もしも我々に何かが見えるとか何かが聞こえるという感受作用の働きが一切起きないとしたならば、この世の中には我々に様々な感受作用を働かせる存在と云うものがないという事になる。

しかし現実は我々は絶え間なく感受作用の働きが起きているのであるから、この世の中は現実が秩序正しい存在として実在している以外にはあり得ないというのが現実である。また現在の瞬間の直前においても感受作用が働く次の現実が一回限りの現実として既に存在すると考えられる。



※瞬前の考え方は微積分に似ている。ΔXを想像を絶する程Xに近似する事によってΔXとxは同じように扱われるが決してΔXとxが同じになることはない。現在の瞬間に想像を絶するほど近い未来である瞬前をΔX、現在の瞬間をXと考えるならば、瞬前が解るという事は現在の瞬間でない状態が解るという事であり、瞬前の状態でない事が現在の瞬間の状態であるという事になる。





プロフィール

悠村隆道

Author:悠村隆道
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妻と2人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より平成15年「授戒」を受け、平成20年「嗣書」を授かりました。    

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