第六頌 釈尊の警告
西嶋先生の訳
主観的な存在や客観的な存在を、あるいはそれと同じように存在や不存在を、
現実のものとして見たり見なかったりする人々は、釈尊が強く戒められた人々である。
中論を勉強しています
頭で考えた内容や感覚器官で捉えた内容を、あるいは何かが存在するとか存在しない事に関して、
この世の中の事として見ることは、釈尊の教える真理を見ていないという事である。
坐禅をしました
主観的な存在があるとか客観的な存在があるとか、何かが存在するとか存在しないとかと、現実を観ずに頭だけで考える人々がいる。
この様な人々は、釈尊の教える真理を見ていない人々である。
※頭で考え出す主観的な存在があるとか、感覚器官で捉える客観的な存在が在るとか、何かが存在するとかしないとか等と自ら何の行動を起こさなず、頭で考える事だけでこの世の中を観ている人々がいる。この様に現実を見ずに考える事だけで全てを解決しようとする人々は、釈尊の教えである真理に出会う事は絶対にあり得ない。
※東日本大震災の時、現地で津波に襲われたミュージシャンの女性が「自分はこれまで音楽で人が救えると信じていたが、音楽では人が救えない何の役にも立たない事が腹の底から解った」と語っていた。平和だからこそ呑気な事を言っていられるが、いざその時となると何も考えず行動する様になる、そうしないと死ぬしかない。
西嶋先生の訳
主観的な存在や客観的な存在を、あるいはそれと同じように存在や不存在を、
現実のものとして見たり見なかったりする人々は、釈尊が強く戒められた人々である。
中論を勉強しています
頭で考えた内容や感覚器官で捉えた内容を、あるいは何かが存在するとか存在しない事に関して、
この世の中の事として見ることは、釈尊の教える真理を見ていないという事である。
坐禅をしました
主観的な存在があるとか客観的な存在があるとか、何かが存在するとか存在しないとかと、現実を観ずに頭だけで考える人々がいる。
この様な人々は、釈尊の教える真理を見ていない人々である。
※頭で考え出す主観的な存在があるとか、感覚器官で捉える客観的な存在が在るとか、何かが存在するとかしないとか等と自ら何の行動を起こさなず、頭で考える事だけでこの世の中を観ている人々がいる。この様に現実を見ずに考える事だけで全てを解決しようとする人々は、釈尊の教えである真理に出会う事は絶対にあり得ない。
※東日本大震災の時、現地で津波に襲われたミュージシャンの女性が「自分はこれまで音楽で人が救えると信じていたが、音楽では人が救えない何の役にも立たない事が腹の底から解った」と語っていた。平和だからこそ呑気な事を言っていられるが、いざその時となると何も考えず行動する様になる、そうしないと死ぬしかない。
最新コメント