中論・7-33頌 綜合的な客観世界と現実の世界

第三十三頌 綜合的な客観世界と現実の世界 

西嶋先生の訳
綜合的な客観世界は、生起、継続、消滅(という時間的な推移)の中には実在し得ないし、現実的でないものの中にも実在し得ない。

綜合的な客観世界がまだ充分に現実的なものになっていない場合には、綜合的な客観世界でない世界が実現するということも、将来といえども決してあり得ない。




中論を勉強しています
生起、継続、消滅は現在の瞬間の具体的な事実として綜合的な客観世界である。しかし生起、継続、消滅を時間的な推移の中において考えるならば綜合的な客観世界は生起、継続、消滅(という時間的な推移)の中に実在しない。そして頭で考えたものの中にも綜合的な客観世界は実在しない。

綜合的な客観世界がまだ具体的に実現していない場合には、いくら想像した綜合的な客観世界を実現させようとしても今直ぐに目の前に現われる事は決してない。

坐禅をしました
まず綜合的な客観世界は現在の瞬間の実在である、そして生起、継続、消滅は現在の瞬間の事実であるから、綜合的な客観世界は生起、継続、消滅に実在している。しかし生起、継続、消滅を時間的な推移と考えるとその存在は頭の中で考えた想念であるから綜合的な客観世界は、生起、継続、消滅(という時間的な推移)の中には実在し得ない。そして頭で考えたもの具体的でないものの中にも綜合的な客観世界は実在し得ない。

綜合的な客観世界がまだ具体的に実現していないとしても、現実の綜合的な客観世界に変わって自分の考えた世界が具体的に現われるという事は決してあり得ない。



※綜合的な客観世界は五の感覚器官で感じられる具体的なものであり、この世の中においては具体的でない綜合的な客観世界というものは実在しない。
※五の感覚器官を通じて外界の刺激を感受出来るからこそ、「この世の中は実在する」と主張できる。


中論・7-32頌 自己管理と霊魂の働き

第三十二頌 自己管理と霊魂の働き

西嶋先生の訳
自己管理は個人の主観的な霊魂の働きによって実現するものではないし、自己管理が客観的な霊魂の働きと同じものであるということもない。

そのような純粋な意味での現象そのものは、人間の主観的な霊魂の働きに依存しているものでもなければ、客観的な霊魂の働きに依存しているものでもない。




中論を勉強しています
現在の瞬間の事実である自己管理は主観的な考え方によって実現する訳でないし、また現在の瞬間の事実である自己管理が客観的な考え方とも異なっている。

だから現実における純粋な意味での現象そのものは、我々の主観的な考え方で成り立っているわけではないし、客観的な考え方で成り立っているわけでもない。現実は現実として目の前に実在している。

坐禅をしました
自己管理は現在の瞬間の事実であるから実在している。だから自己管理は我々の心の働きによって現われるものではないし、現実には存在していないがこの世のあると言われている霊魂の働きと同じでもない。

従って、目の前に存在するありのままのこの世の中の現象は、我々の心の働きによって成り立っているわけではないし、現実には存在しない、いわゆる霊や魂によって成り立っているわけでもない。この世の中は我々がどのように考えようと目の前の現象は現実であり、何にも妨げられない極めて安定してものである。



※この世の中の実在は我々の心が存在を認めるから実在するのではない、この世の中の実在は我々の心に何の関係もなく実在する。また、仏教ではいわゆる霊魂の存在を明確に否定しているが、もしもその霊魂というものがこの世の中にあったとしても、それがこの世の中に対して何の影響を与える事はない。

※この世の中は現実であって、我々の心が有るとか無いとかと考える事ではない。いくら心では腹が空いてないと思ってもいつまでも食べなければいずれは飢え死にしてしまうし、いくら寒くないと言っても雪の原野に裸で立っていればいずれは凍死する。自分の心の持ち方である一定の対応は出来るが、現実となると絶対ではない。またこの世の中には霊魂というものが有ると考えらているが、それがこの世の中の現実に対応できるかと言えば全く対応できない。
この世の中は何処かに消えるわけでもなく何処かから何かが現われるわけでもない極めて安定した世界である。だから、我々はこの世の中を素直に見詰め現実に従って生きていくべきである。


中論・7-31頌 頭脳細胞の働きと現実の世界

第三十一頌 頭脳細胞の働きと現実の世界 

西嶋先生の訳
抽象的なものが自己管理された存在として現われて来ることは決してない。

そのような二次元的な頭脳の働きは、個々ばらばらに独立して存在する事物が、実は現実の世界そのものであることを、見抜くことができないものである。




中論を勉強しています
頭で考え出した抽象的な内容が自分を縛るものとして現われて来ることは決してない。

頭で考える働きや感受する働きでは、この世の中に存在する個々ばらばらに独立している事物が実は現実そのものであるという事に、気が付く事が出来ないようである。

坐禅をしました
頭で考え出した抽象的なものはこの世の中には存在しない。たとえその抽象的なものが自分を縛る存在として認めたとしても、現実にはその抽象的なものが存在するものとして現われる事は決してない。

頭で考える理性や感性では、この世の中に存在する全てが個々ばらばらに独立して存在するのが実は現実であるという事に気付くことができないものである。



※この世の中は頭で考えたものが現実として現われる事は決してない。逆に言うならばこの世の中の存在は全て現実である。

この世の中の存在する一切のものは個々ばらばらに独立して存在する事物であるのに、人間はついついこの世の中に存在する全てのものに対して観念的に優劣をつけたがる。しかしこの世の中は優劣という対比したもので出来上がっている訳ではない。全てのものが少しづつの違いを持って、個々ばらばらに独立した存在としてこの世の中において一つに纏まっている。



中論・7-30頌 抽象的な世界と自己管理

第三十頌 抽象的な世界と自己管理

西嶋先生の訳
現実から遊離すればする程、存在の中における自己管理は現われて来ない。

存在は決してたった一箇所にある訳ではないのであるから、存在しないという事実が姿を現わすことも決してあり得ない。




中論を勉強しています
現実から目をそらし頭で存在というものを考えれば考えるほど、存在の中にある自分で自分の事を決める事が現われて来なくなる。

存在というものは決して一箇所だけにある訳ではない。この世の中の全てに存在していて、存在というものが存在しないという事実は決してあり得ない。

坐禅をしました
自分で自分を好きな様に決断する事は現実において成り立つのであるから、もしも現実から目をそらし頭の中で色々と思いめぐらしていればいる程、存在の中にある自分で決めるという事が出来なくなる。

存在というものはたった一箇所にある訳ではない、特別のところにある訳でもない、言い換えればこの世の中の全てが存在である。この世の中において存在というものは何処にでも満ち溢れているのであるから、存在がないという事実はこの世の中において何処にも存在しない。



※自分は現実の中に存在しているのにその現実から目をそらせばそらす程、その現実の中に生きる自分が自分自身で決めた生き方をするという事が難しくなる。存在というものはたった一箇所のものではないし特別のものでもない、この世の中そのものが存在である。だから我々がいくら現実から遊離して我を忘れたとしても我々の存在は否定する事は出来ない。

自己管理:坐禅をすることによって自律神経が平衡になり、自分自身が自分の主人であるという状態になると、自分が好きな様に自分自身を操縦できる様になる。



中論・7-29頌 宇宙の現象と自己管理の状態

第二十九頌 宇宙の現象と自己管理の状態

西嶋先生の訳
全ての均衡した境地における最高の境地が現われていない場合には、

全ての均衡した境地における最高の自己管理も、現われてこない。




中論を勉強しています
全ての拘りのない状態において、いまだに最高の境地が具体化されていない場合には

全ての拘りのない状態における最高の自己管理も同じように具体化しない。

坐禅をしました
この世の中は様々の要素を含んだ拘りのないありのままの単純な世界であるのに、いまだに現実が具体的なものとして実感できていない場合には、

様々の要素を含んでいて拘りのないありのままの単純な世界であるこの世の中において、自分で自分を好きな様に管理する状態もこの世の中に現われて来ることはない。



我々が生きているこの現実の世の中は我々の目の前にある単純な事実である。その世の中の移ろいは何か特別のものが生まれている様に感じる事があるかもしれないが、それは瞬間瞬間に少しずつ移り変わる単純な事実でしかない。
それと同じように、この世の中は我々の眼の前にある単純な事実であるから自分で考える理想の世界も現われて来ない。

*均衡した境地=こだわりのない境地




プロフィール

悠村隆道

Author:悠村隆道
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妻と2人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より平成15年「授戒」を受け、平成20年「嗣書」を授かりました。    

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