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中論・12-9 飽くまでも自己責任

第九頌 飽くまでも自己責任

西嶋先生の訳
(自分と他人との)両方によって作られた行為が、恐らく苦しみの原因であると考えられる場合でも、(自分と他人とは)恐らく一人一人別々の行為であろう。

他人のやった行為ではなく自分のやった行為が苦しみの原因であるという考え方の、一体何処に不合理な点があろう。




中論を勉強しています
自分と他人との両方による行為が原因で苦しみが生まれた場合、自分と他人とは恐らく一人一人別々の行為をしているのであるから、もしも苦しみが在るとしたら自分と他人とは別々の苦しみを作り出したのであろう。

自分と他人との両方による行為が原因で苦しみが生まれた場合、他人の行為ではなく自分の行為が苦しみの原因であるという考え方の何処に理屈に合わない事があるのであろう。

坐禅をしました
自分と他人の行為によって生まれた苦しみがあるならば、恐らくその苦しみは自分と他人との一人一人別々の行為によって生まれた別々の苦しみである。もしも苦しみがあるとしてもそれは自分と他人の両方の行為によって生まれた苦しみではない。

他人の行為と自分の行為が一体となって生まれる苦しみは根拠のない妄想である。苦しみは主観的なものであり他人は関係のないことである。他人のやった行為ではなく自分のやった行為が苦しみの原因であるという考え方の、一体何処に不合理な点があろう。



※自分と他人が協力した行為により苦しみが生まれた場合、恐らく自分の苦しみは他人の行為が原因だと考える。しかし自分と他人とは別々の存在であるから行為も別々のものであるし苦しみも別々のものである。もしも苦しみが在るとすればやはり自分の行為によって生まれたくるしみであろう。

※自分と他人が一体となる事はあり得ない事、だから他人の実行と自分の実行が一体となって生まれる苦しみなどは現実にはあり得ない。例えば株を誰かに勧められてお互いが株を買った後に株が暴落し評価損を出してしまった。株が暴落してもその株の買入を決めたのは明らかに自分であり誰のせいでもない、あくまでも株の評価損を受け入れるのは自分だけの問題である。やはり自分の苦しみは自分自身の問題でありそれ以外のものに苦しみの原因を求めるのは理屈に合わないものである。




中論・12-8 他人の行為の免責

第八頌 他人の行為の免責

西嶋先生の訳
自分のやった行為が苦しみの原因にはならないのと同じように、苦痛そのものが原因で苦痛が作られるということでもないのであるから、

他人が自分の意志でやったことでない場合には恐らく、苦しみが他人の行為によって起こったということは絶対的にあり得ないであろう。




中論を勉強しています
第六頌で「本来苦しみを伴わないことが行為の実行されたときの特徴である」と主張した様に自分のやった行為が苦しみの原因にはならないと同じ様に、苦痛そのものによって新たな苦痛が作られる事はない。

だから、仮に自分の意志で実行していないのに、もしも様々な苦しみが在るのであれば、その様な状況はどの様にして他人が実行したのであろう。

坐禅をしました
自分のやった行為は現在の瞬間における単純な事実であるから苦しみの原因ではない、それと同じ様に苦痛も現在の瞬間における単純な事実にすぎないのだから苦痛によって苦痛という苦しみが作られる事はない。

だから、仮に意識して行為をしていないのに、もしも苦しみが在ったならば我々はとかく他人のせいにしてしまうが、他人の行為によって苦しみが生まれたという事は絶対的にあり得ないであろう。



※苦しみはついつい他人の行為が原因だと考えてしまうが、その行為は現在の瞬間の単純な事実でしかなく苦しみを伴っているわけではない、行為と苦しみは近い関係にあるので他人の行為が苦しみの原因だと錯覚してしまう。

※仮に、自分では苦しみの原因になる様な事は何一つしていないのに、もしも現実に苦しみが在った場合には我々は他人のせいや世の中のせいにしてしまう。しかし他人や世の中がどの様にして苦しみの原因になるようなことをしたのであろうかそのような事は絶対的にあり得ないであろう。やはり苦しみというものは自分が自分の頭で考えて作り出したものであろう。



中論・12-7 苦しみと本人の責任

第七頌 苦しみと本人の責任

西嶋先生の訳
自分のやった行為が目的を達成しなかったために生まれて来ている苦しみが、他人の行為の結果であるという事実が何処にあり得よう。

他人が苦しみの原因を自分がやったことのように云いたがる場合があるけれども、その行為自身もそれに属する事柄も、恐らく本人自身が作り出したものであろう。




中論を勉強しています
自分自身がやった行為で良い結果を得られなかった為に生まれた苦しみは、全てが他人の行為のせいであるという事実は決してあり得ない。

仮に、他人の実行による苦しみだからとしても、その他人の行為による苦しみにもそれに属する事柄の中にも、恐らく自分の行為が含まれて作り出したものであろう。

坐禅をしました
自分の思い通りにならない苦しみは他人のせいだと思いたいが、複雑な因果関係においてこれが原因だと言い切れるほど明確で具体的な事実を見つける事は困難である。自分の行為が苦しみの原因ではないと同時に、他人の行為も苦しみの原因にはなっていない。

仮に、自分の苦しみは全て他人の実行した行為のせいだとしても、その他人が実行した行為の中には恐らく我々自身が起こした行為の影響が必ず含まれており、それによって苦しみは作り出されているのであろう。



※他人に作ってもらった食事がまずいという苦しみがあったとしても、他人はまずい食事を作ろうと思って作っている訳ではない。まずいという苦しみを解消するには自分で作るしかない。また庭の草が伸び放題になっているのに誰も草むしりをやってくれない。ならば自分でやればよいのだが草をむしる習慣がないから自分ではやろうとはしない。そしてその苦しみ原因はを草むしりをしてくれない他人のせいだと思い込んでしまう。庭の草が伸び放題になっている苦しみを解消するには今直ぐに自分で草をむしる習慣をつけるしかない。

※自分の行為は常に外界世界の刺激や他人の行為の影響を受けている、そして他人においても同じ様に常に外界世界の刺激や他人の行為の影響を受けている。だから他人の行為においては自分が他人に対して行った行為が必ず含まれていると言い切れる。


中論・12-6 他人の行為による苦しみ

第六頌 他人の行為による苦しみ

西嶋先生の訳
自分以外の人によって苦しみが生み出された場合、その自分以外の人とは一体誰のことであろう。

本来苦しみを伴わないことが行為の実行されたときの特徴であるけれども、他人に責任を負わせることによって、事実が誇張され過ぎている。




中論を勉強しています
他人の行為によって自分の苦しみが生み出されたと思っている場合、ではその他人とはいったい誰の事であろう、明確に誰のせいと言い切る事が出来ない。

本来行為と言うものは苦しみを含んでいる訳ではない、苦しみを含んでいない行為と苦しみを同一ものであるとみるのは、苦しみの責任を他人に押し付けてしまい本当の事を分からなくしてしまっている。

坐禅をしました
他人の行為が原因で自分が苦しんでいると思っている場合がある、もしも他人の行為が原因で自分が苦しんでいるとしたら、その原因を作っている他人とは一体誰なのかと探しても正確に指摘する事が出来ないであろう。

他人の行為がないのに苦しみがあるのは既に他人の行為が終了した状態であるという事であるが、それでも苦しみがあるのは現実には他人の行為は終了しているのに、苦しみの原因をいまだに他人の行為が原因だったとしているためである。



※この世の中の原因結果は複雑に絡み合っていて明確な原因結果を言い切ることは出来ない。一つの原因は無数の結果を生み出し、一つの結果は無数の原因によって生み出されている。只々眼の前の単純な事実を素直に受け入れるしかない。

※行為に依って苦しみが生まれるという考え方は、苦しみと行為は別々のものであるという単純な事実を捻じ曲げているし考え過ぎである。

※他人の行為が既に終了しているのに、記憶によりいつまでも苦しむ事がある。



中論・12-5 他人の行為と苦しみ

第五頌 他人の行為と苦しみ

西嶋先生の訳
他人の作り出したものが苦しみである場合には、単純な事実がそこにあるだけのことである。

他人によって作り出された内容が、具体的な苦しみであるような場合には、そのような苦しみのない場合が、一体どこにあり得るであろう。




中論を勉強しています
他人の行為によって苦しみが作り出されている場合、そこには他人によって作り出される単純な事実が目の前に存在しているだけの事である。

他人によって作り出された苦しみが否定する事は出来ないほど具体的な場合、苦しみのない世界をもしもこの世の中に求めたとしても、この世の中の何処にも苦しみのない世界は存在しない。

坐禅をしました
他人によって作り出される苦しみがある場合がある。もしもそうだとしても、そこには他人によって作り出されたと思っている単純な事実が目の前に存在しているだけの事である。だから苦しみが存在するのではなく、苦しみの原因となる他人の行為があるだけである。

他人によって作り出されてしまった苦しみが否定出来ないほど具体的な苦しみである場合に、もしもこの世の中に苦しみのない世界を求めたとしてもこの世の中の何処にも苦しみのない世界は存在しない。ただ眼の前に単純な事実が存在するだけである。



※苦しみという具体的なものは存在しないが、苦しいと思う事実は否定する事は出来ない。

※苦しみが頭で考えた想念であるからこの世の中には苦しみの世界は実在しない、苦しみが実在しないのであるから、その反対の苦しみのない世界もこの世の中の何処にも実在しない。




プロフィール

悠村隆道

Author:悠村隆道
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妻と2人暮らし。68歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より平成15年「授戒」を受け、平成20年「嗣書」を授かりました。    

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