中論・8-11頌 行為の実行と学問的な領域

第十一頌 行為の実行と学問的な領域

西嶋先生の訳
具体的な世界と抽象的な世界とが一つに重なった現実の世界が、ただ動いているだけのことであって、具体的なものも抽象的なものも行為の実行と同じものでは決してない。

言葉を使って議論されたり頭の中で考えられたりする以前から、事実としての行為は正に議論の領域から抜け出してしまっている。




中論を勉強しています
具体的な世界と抽象的な世界が一つに重なったのが現実の世界である、その現実の世界がこの世の中でただ動いているだけの事であって、具体的なものあるいは抽象的ものも現実の行いとは決して同じではない。

事実としての行為は現在の瞬間において既に存在しており、言葉を使って議論されたり頭の中で考えられたりする以前から、議論をする事が無意味なものとなっている。

坐禅をしました
この世の中は具体的な世界と抽象的な世界とが一つに重なったたった一つの現実の世界である。そのたった一つの現実の世界がこの世の中としてただ動いているだけの事である。そして具体的なものも抽象的なものも頭で考えた事であり実在しないのだから現実の行いと同じものでは決してない。

事実としての行為である行いは思考によって具体的に捉えたり抽象的に捉えてられるが、現実の行いは言葉を使って議論されたり頭の中で考えられたりする以前から既に存在しており、二つの捉えよりもたった一つの単純な事実が存在しているに過ぎない。



*議論の領域=議論をする

※現実は言葉で説明できないものだから、もしも現実を言葉を使って議論し始めたらいくら雄弁家が議論したとしてもその内容は現実ではない。この世の中そのものが現実であり真実である、だからこの世の中を勉強しなければならない。




中論・8-10頌 抽象的な世界や具体的な世界と現実の世界

第十頌 抽象的な世界や具体的な世界と現実の世界

西嶋先生の訳
抽象的な世界が具体的な世界を作り出すということでは決してなく、具体的な世界と抽象的な世界とが一つに重なった正に現実の世界があるだけである。

言葉で議論されたり頭の中で考えられたりする以前から、行為の実行は行為として既に実行されている。




中論を勉強しています
この世の中は抽象的な世界が具体的な世界を作り出すという事は絶対にない。この世の中は具体的な世界と抽象的な世界とが一つに重なった現実の世界がたった一つあるだけである。

行いが言葉で議論されたり頭の中で考えられたりする以前から、行いは行為として既に実行されている。

坐禅をしました
この世の中は頭で考えた抽象的な世界が感受できる具体的な世界を作り出すという事ではない。また感覚的に捉えた具体的な世界が抽象的な世界を作り出すという事でも決してない。この世の中は具体的な世界と抽象的な世界とが一つに重なった現実の世界がたった一つ存在するだけである。

動作や行為は言葉で議論されたり頭の中で考えられたりする以前から、動作や行為として既に実行されている。



*行為の実行=具体的な動作

※原文の中論(サンスクリット)において、2行目の【言葉で議論されたり頭の中で考えられたりする以前から、行為の実行は行為として既に実行されている。】は、第9頌の2行目と同じことを言っている。この2行目の文章は竜樹尊者がいかに強く主張したかったかが伺えます。

※行いを感受や認識をした時、その行いは既に過去のものになっている。




中論・8-9頌 抽象的な世界や具体的な世界と現実の行い

第九頌 抽象的な世界や具体的な世界と現実の行い

西嶋先生の訳
抽象的な世界でもなく、具体的な世界でもなく、正に抽象的な世界と具体的な世界とが一つに重なった現実の世界である。

言葉を使って説明したりあるいは頭を使って考えたりする以前から、動作は行為として既に実行されている。




中論を勉強しています
現実の世界は抽象的な世界でもない、かと言って現実の世界は具体的な世界でもない。現実の世界は抽象的な世界と具体的な世界とが一つに重なった世界である。

動作は言葉を使って説明したりあるいは頭を使って考えたりする以前から、具体的な動作は行為としてもう既に実行されている。

坐禅をしました
この世の中は頭で考える抽象的なもので出来上がった世界ではない、かと言ってこの世の中は我々が感覚的に捉える具体的なもので出来上がった世界でもない。この世の中は抽象的な世界と具体的な世界とが一つに重なった現実の世界である。

行いを言葉を使って説明したりあるいは頭を使って考えたりする以前から、具体的な動作が行為として既に実行されている。



※具体的とは明確な実体を備えている様子を認識している事であって、決して現実そのものではない。
※動作は行いに対する具体性であり見た目(外見)である。
※行い(動作と行為)の世界は頭で考える抽象的な世界や感覚的に捉える具体的な世界の以前に別の世界として既に存在している。




中論・8-8頌 具体的なものと抽象的なもの

第八頌 具体的なものと抽象的なもの

西嶋先生の訳
抽象的なものが具体的なものによって作られるということは絶対にないし、具体的なものが抽象的なものによって作られるということも絶対にない。

何故かというと、この地上におけるさまざまの悪徳でさえも全て、それを実行する人に依存して正に具体化されているのであるから。




中論を勉強しています
抽象的な事が具体的な事物によって作られるという事は絶対にないし、具体的な事物が抽象的な事によって作られるということも絶対にない。

何故かというと、行いをする人によってこの地上における全てのものが具体化されるのであって、善行のみならずたとえ悪徳と言えども例外ではない。

坐禅をしました
頭の中で色々と考えた抽象的なものと目に見える手に触れる等の具体的なものとは全く別個の存在である。だから抽象的なものが具体的なものによって作られるという事は絶対にない、それと同じ様に具体的なものが抽象的なものによって作られるという事も絶対にない。

何故ならば、この世の中の全てのものは行いを実行する人によって具体的になるのであって、それがこの世の中に於いてふさわしくないものであったとしても、やはり行いを実行する人によって具体的になるのである。だから抽象的なものが具体的なものによって作られるということは絶対にないし、具体的なものが抽象的なものによって作られるということも絶対にない。この世の中の現実は全て実行する人に依存して正に具体化されているのである。



*悪徳=何か行いをするとこの世の中で生じる摩擦

※自分の目の前の事実と自分の頭の中で考えた事とは全く別個のものである。人はよくこの二つをけじめをつけずに混同してしまいやすいが、決してこの二つ考え方を混同してはならない。いくら頭で考えた事でもそれがそのまま目の前の事実になる事はない、また目の前の事実が抽象的なものとして全て理解できるわけではない。




中論・8-7頌 行為の実行と現実の世界

第七頌 行為の実行と現実の世界

西嶋先生の訳
行為の実行は、具体的な世界と抽象的な世界とが一つに重なった現実の世界そのものであって、具体的なものと抽象的なものとが一つに重なった現実が、行為の実行を作り出すということではない。

(具体的なものと抽象的なものとの)二つのものの対立している状態が現実そのものであるから、抽象的なものだけが単独に存在するということは何処にもあり得ない。




中論を勉強しています
行いは具体的なものと抽象的なものが一つに重なった現実そのものである。決して具体的なものと抽象的なものとが一つに重なった現実が有るから、行いが作り出される訳ではない。

具体的なものと抽象的なものの二つの要素が含まれている状態が現実であるから、頭で理解している内容である抽象的なものだけが実在としてこの世の中に存在するということは何処にもあり得ない。

坐禅をしました
行いは行いでしかないのだが、人は行いを具体的な外見と抽象的な意味合いのものに分けて考え理解しようとする。具体的な外見と抽象的な意味合いが一つに重なった現実をいくら頭で考えたとしても現実の行いが作り出される訳ではない。行いは行いをする事によってはじめて作り出される。

具体的な外見と抽象的な意味合いが一つに重なった状態が現実そのものであるから、観念論で抽象的なものだけがこの世の中に実在するという事はあり得ないし、同じように唯物論で具体的なものだけがこの世の中に実在するという事もあり得ない。



*行為の実行=行い

※この世の中が具体的なものと抽象的なものによって作り出される訳ではない。この世の中は現在の瞬間の事実があるだけであり、その瞬間の事実が次々と移り変わっているに過ぎない。
諸行無常=一切の行いは現在の瞬間における事実の移り変わりである。
参照:ブログ正法眼蔵=坐禅・・・・・恁麼-21




プロフィール

悠村隆道

Author:悠村隆道
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妻と2人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より平成15年「授戒」を受け、平成20年「嗣書」を授かりました。    

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