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中論・14-6頌 違ったものの独立性

第六頌 違ったものの独立性

西嶋先生の訳
違ったものと違ったものとが、違った状態を克服した場合、(その違ったもの同士が)違った状態を克服して、正に動くということは可能性としては考えられる。

(しかし)違ったものと違ったものとが、違った状態を克服して動き出すということは、実際にはあり得ないし、そのような事態は将来といえどもあり得ない。




中論を勉強しています
もしも明確に違うもの同士がその違った状態を克服した場合、過去の違いを乗り越えて今は適切な状態であると頭では考える事が出来る。

明確に違うもの同士がその違った状態を克服して適切な状態でいられると頭では考えられる、しかし現実においては適切な状態が存在する訳はないし将来においてもその様な事実が存在する事はあり得ない。

坐禅をしました
もしも明確に違う事物Aと事物Bがお互いの違った状態をなんとか克服して一つに融合したA・Bになった場合、たとえ過去に明確な違いがあったとしても今は一つにまとまり適切な状態であると頭では考える事が出来る。

しかし明確に違う事物Aと事物Bが一つに融合したA・Bという状態は現実には存在しないし、現実には存在しない事態は将来といえども存在しない。



※この世の中の全ての事物は個々バラバラに独立して存在するのが自然である、だから全体主義の考え方は不自然であるといえる。

※仲の悪い呉の人と越の人が同じ船に乗って嵐に合った時お互いに助け合って嵐を乗り切るという事は頭では考えられるが、しかし呉の人と越の人が融合して呉・越の人になる事はない、やはり呉の人は呉の人であり越の人は越の人である。

※お爺さんと御婆さんが仲良く暮らしているけれども、毎朝お爺さんは山へ柴刈りにお婆さんは川へ洗濯に行く。本来、人はバラバラの存在だけれど何か糊の様な物でまとまっているが、その糊の様なものが無くなれば本来のバラバラの存在になる事はごく当たり前の事である。



中論・14-5頌 個々の事物の独自性

第五頌 個々の事物の独自性

西嶋先生の訳
違っているものと違っているものとは、それぞれ違っている状態がはっきりしているし、違っていないものと違っているものとは、それぞれ違ったものとして動いている。

個性のはっきりしているものも、個性のはっきりしていないものも、それらがそれ自身とは別のものとして現われて来ることはない。




中論を勉強しています
多く違っているものと少し違っているものとは、それぞれ違っている状態が確認できるし、あまり違っていないものと多く違っているものとは、それぞれがそれぞれ違ったものとして動いている。

多く違っているものも少し違っているものも、それがそれそのものであるから、それとは別のものとして現われて来ることはない。

坐禅をしました
ある事物Aとある事物Bを外見上で比べた場合多く違っている場合と少し違っている場合がある、その違いはその場合場合によって違っている状態が個々に確認できるし、動作の立場で見てみるとあまり違っていないものと多く違った動きをするものがあるが、それぞれが違ったものとして個々に動いている。

個々に事物がそれぞれ違っていることは確認できるし個々の事物がそれぞれ違った状態で存在しているのがこの世の中の事物である。この世の中の事物がそれ自身とは別のものとして現われて来る事はない故にこの世の中の事物は全て独自性を保っている。



※この世の中の事物は少ずつ違いがあり個々バラバラに独立した独自な存在である。個々バラバラの事物は一つに融合してこの世の中を作っている。



中論・14-4頌 個々の事物の不変性

第四頌 個々の事物の不変性

西嶋先生の訳
個々に独立した存在が、本質的に別のものになるということはないし、(そのような事実は)見る働きその他の感受作用を通して認識されるということでもない。

何かの中に或は何かを通して、外観以上の優れたものが(現実の世界の中には)存在しているけれども、本質的に全く別のものが現われて来るということは決してない。




中論を勉強しています
この世の中に様々の事物が存在している、そしてその事物は例外なしにその事物そのものである。この事実は見る働き等々に代表される感受作用に依って認識されるものではない。

この世の中の様々の事物いつでもそして何かによって少しばかり優れたものになる事がある、しかしその事物とは全く別のものが現われて来るという事は決してない。

坐禅をしました
この世の中に存在している様々の事物はそれぞれが個々に独立して存在している、その事物は例外なしにその事物そのものであり、本質的に別のものになることはない。この様な事実は見る働き等々に代表される感受作用に依って認識されるものではない。

この世の中に存在している様々の事物は、しばらくするとまたは誰かによって少しばかり外見上が優れたものになるかもしれないが、今存在する事物の本質が全く異なったものとして現われるという可能性は決してない。



※この世の中に存在している様々の事物は具体化していてその具体化が変わる事はない、そして様々の事物は例外なしにその事物そのものであり、何かによってその事物の本質が与えられたものではない。この様な事実は見る働き等々に代表される感受作用に依って認識されるものではない。

※この世の中に存在している様々の事物は、ある程度時が過ぎたりとか誰かによってとかで少しばかり見た目が優れたものになるかもしれないが、今存在する事物の本質が全く異なったものとして現われるという可能性は決してない。

※それそのものがそれであり、それがそれでないものになったら、もはやそれはそれではない。

※どんなに時代が変わろうとどんな人が計算しようと「1∔1」は2であって、決して2以外になる事はない。 



中論・14-3頌 融合の性質

第三頌 融合の性質

西嶋先生の訳
融合は融合以外のものに依存したり、融合以外のものに帰属したりしていることがなく、融合は融合以外のものとして認識されることが決してない。

融合は目の前に示されたものとして、既に見えているのであるから、そのような融合が今後更に進展するということはあり得ない。




中論を勉強しています
行為と行動が一体化された融合は融合以外のものによって基づいていないし融合以外のものと一つになる事はない、そして融合は融合以外のものとして認識される事は決してない。

行為と行動が一体化された融合は目の前に現われたものであり、我々が現実に見えているものであるから、そのような融合が今後更に変化するという事はあり得ない。

坐禅をしました
行為と行動が一体化された現実の行いは現実の行い以外のものに依って成り立っている訳ではない、また現実の行いが現実の行い以外のものと一緒になっている事はない、そして行為と行動が一体化された現実の行いが現実の行い以外のものとして認識されることは決してない。

行為と行動が一体化された現実の行いというものは目の前に存在しているものであり、既に具体化しているものだあるから、その様な現実の行いが更に進展するということはあり得ない。



※行為と行動が一つになる行いというものは頭で考えられるが、現実の行いにおいては行為と行動が別々に認識される事は決してない。

※行いが眼の前で見える事は既にその行いの始まりであり、行いは行いそのものであるから、その瞬間の行いがそれ以上に現われる事はあり得ない。



中論・14-2頌 興奮と快、不快

第二頌 興奮と快、不快

西嶋先生の訳
興奮と興奮させられた状態と興奮することとは、同じように視覚に関係している。

これらの三つのものに依存して、ある場合には激しい苦痛であるけれども、ある場合にはさまざまの憩いの場所がある。




中論を勉強しています
第1頌で述べた様に興奮と興奮させられた状態と興奮する事は、同じように視覚に関係する事である。

そしてこれらの三つの要素によって、ある場合には苦痛の状態になったり、ある場合には憩いの状態になったりする。

坐禅をしました
例えばスポーツを観戦した時、スポーツのプレイ(物)があり、そのプレイを見ている状態(行い)があり、プレイによって興奮する人(者)がいる。この現象は第一頌で述べた事と同じ様に視覚に関係している。

三つからなる状態が繰り返される事により、ある場合は苦痛を認識するようになったり、ある場合にはとても心地よい状態を認識するようになる。



※第一頌では能動的なある現象を三つの要素に分けて考えたが、第二頌でも受動的なある現象を同じように三つの要素に分けて考える事が出来る。そして行為する感覚器官によって視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚などに関係していて現在の瞬間の状態である。

※三つの要素は現在の瞬間の状態であるが、この状態が連続する事によって我々はある場合には非常に不快を認識する様になったり、ある場合には非常に快楽を認識する様になる場合がある。




プロフィール

悠村隆道

Author:悠村隆道
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妻と2人暮らし。68歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より平成15年「授戒」を受け、平成20年「嗣書」を授かりました。    

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