中論・12-1頌 苦しみの不明確性

第一頌 苦しみの不明確性

西嶋先生の訳
自分のやった行為も他人のやった行為も自分と他人との両方がやった行為も、必ずしも合理的なものではない。

苦しみという言葉は、たった一つの概念であろうとしているけれども、苦しみという言葉は、決してまだそのように完成されたものとして固定化されている訳ではない。




中論を勉強しています
自分がやろうと他人がやろうとそして自分と他人が共同でやろうと、およそ人間が行う行為と言うものは必ずしも合理的に説明が付けられるものではない。

苦しみという言葉は、たった一つの言葉で理解しようとするけれども、苦しみという言葉は、現実には「これが苦しみである」と具体的に固定化されている訳ではない。

坐禅をしました
およそ人間が行う行為と言うものは自分がした事も誰かがした事もそして自分が誰かと一緒になってした事も、必ずしも理屈に合う様な行為をしている訳ではない。

全ての苦しみを苦しみというたった一つの言葉で言い表そうとするけれど、苦しみと行為との間には明らかな関係があると決めつけられるものではない。



※行為は現在の瞬間の状態であるから常に変化をしているので、行為は次々と実行され合理的に実行をする事が出来ない。だから我々の日常生活を見てみると我々は必ずしも理屈に合わせて生活をしている訳ではない。

※苦しみには抽象的な苦しみや具体的な苦しみがある。その全ての苦しみを「これが苦しみだ」と決めつけてしまえるほど単純な状態で苦しみというものがある訳ではない。苦しみを否定はしないが苦しみと行為は密接に関係している訳ではない。



中論・第十二章 苦しみに関する検証

第十二章 苦しみに関する検証に入る前に西嶋先生の解説です

一般的にいうならば人間は交感神経が強い場合、精神的な緊張が高まっているために、苦しみに対して鈍感であり、副交感神経が強い場合には、神経が敏感になっているために、苦しみを感じる度合いが激しい。しかし仏教においては交感神経と副交感神経とがプラス/マイナス:ゼロの状態にある処から、苦しみというものも人間の感受作用における状態であって、人々が一般に考えるように苦しみというものが、果たしてこの世の中に実在するかどうかを疑っている。そこで本章においては仏教における中道的な立場から、苦しみという事実をどのように理解するかが語られている。

抽象概念 : 恐怖
具体概念 : 苦痛
現実概念 : 痛み




※苦しみは頭で考えた内容であり苦しみの原因となる客観的な事実とは直接に関係している訳ではない。たまたま苦しみと苦しみの原因となる客観的な事実が非常に近い関係にあるので、その両方が一緒に存在している様に見えてしまうので、苦しみが具体的に存在している様な誤解をしてしまう事が多い。



中論・11-8頌 人生の終末と現実の世界

第八頌 人生の終末と現実の世界

西嶋先生の訳
人生の終末が気付かれていない以前においては、われわれの日常生活の中に純粋なものが見当たらない。

しかしこの世の中のすべての事物は、人生の終末が気付かれていない以前においても、実際に存在している。




中論を勉強しています
われわれは人生の終末に気が付くまでは、自分自身の日常生活の中に純粋な自分自身が見当たらない。

この世の中には様々の事物が存在しているが、たとえ様々な事物が存在したとしても我々は終末以前において気が付くことがない。

坐禅をしました
われわれは人生には終末があるのだという事に気付くまでは、移り行くわれわれの日常生活において人生の終末があるという事に気付くことがない。

この世の中には様々の事物が存在している、しかし我々が終末以前にその事に気付こうと気付くまいとこの世の中には様々な事物が存在している。



※我々の日常生活において特別の瞬間というものが存在する訳ではない。もしも存在するとするならばそれは頭で考えた想念であり錯覚である。我々の日常生活は現在の瞬間において極めて当たり前の状態が只々次々と移り変わるだけの事である。

※この世の中は様々の事物が確かに存在するが、たとえ存在するとしても実在する事はない。

※原因結果の法則は確かに存在するが、原因結果と言うものが具体的に実在する訳ではない。そして宿命というものもは決して存在する事はない。

※この世の中の全ての事物は我々の始期や終期に関係なく確かに存在する。



中論・11-7頌 現実の世界

第七頌 現実の世界

西嶋先生の訳
行為の実行と行為の理由とは同じものであり、物事の外見と物事の目的とがやはり同じものである。

さまざまの感受作用と感受された刺激とが、完全に一つに重なっている現実の場面においては、単純な現象がただ眼の前にあるだけの事であって、その他のものは何も見当たらないということが実状である。




中論を勉強しています
現実の世界において行いという一つのものが行為の実行と行為の理由に分けて考えられている、また同じ様に物事という一つのものが物事の見た目と物事の本質に分けて考えられている。

感覚的な刺激は何かの原因によって得られるものであるが、現実の世界においては単純な現象がただ目の前の世界にあるというそれだけの事であり、それ以外のものは何もないのが現実の世界である。

坐禅をしました
行いは行為の実行と行為の理由に分けて考えられるが現実においては実行も理由も本来一つの物である、また色々な事物もその事物の外見と本質に分けて考えられるが現実においては本来一つのものである。

様々の感覚的な刺激は何かの原因によって得られると言われている、この我々の目の前に存在する単純な現象が現実そのものであり、それ以外のものは何も存在しない。



※頭で色々と考えだした事を否定する訳ではないが(例えば時間)、頭で色々と考えだした事がこの世の中に具体的に現われる事はないし存在する事もない。この世の中は現在の瞬間の単純な事実が少しずつ移り変わっていくだけの世界である。



中論・11-6頌 老化や死滅の偶発性

第六頌 老化や死滅の偶発性

西嶋先生の訳
そのような状況の中では、事前とか事後とか同時とかという過程が、身近に示されている訳ではない。

この世の中がさまざまの老化や誕生を見せてくれている。現実の事態とか老化や死滅は一体何であろう。




中論を勉強しています
第五頌において「死にゆく事、生まれいずる事はそのどちらもが理論的に説明できないであろう」と主張しているが、そのような状況の中では死にゆく事生まれいずる事の事前とか事後とか同時とかという過程が具体的に示されている訳ではない。

この世の中が我々に様々の誕生や老化や死滅の状態を細かく見せてくれている、そしてこの世の中のさまざまの状態は一体何なのであろうかは中々分からない。

坐禅をしました
第五頌において「死にゆく事、生まれいずる事はそのどちらもが理論的に説明できないであろう」と観念論的に主張しているが、誕生や老化や死滅の事前とか事後とか現在とかの様々な状態は、現在の瞬間の連続であって「これがそうだ」と具体的に言えるものがある訳ではない。

この世の中が我々に様々な誕生や老化や死滅の状態を細かく具体的に見せてくれているが、この世の中の様々の状態は一体何故なんだろうと唯物論的に推理してみても中々分からない。



※われわれの一生には様々の過程がある。その一生は誕生から死滅までが連綿と繋がっているのではなくて、現在の瞬間における様々の状態が次々と移り変わっている。その過程の一つ一つは偶発的に次々に現われて来るものであって、前もって存在が予定されているものではない。((宿命論を明確に否定する。)

※この世の中は全てが偶発的なものの連続であるから様々の現在の瞬間の状態を見せてくれる。だから現在の瞬間の事実が偶発的なものであるから、それによって何かが生み出されるとか何かを発展させるという事は決してない。従ってこの世の中の全てが偶発性による現在の瞬間の状態であると言えるのであるから、結果である誕生や老化や死滅を理論的に説明しようとしても「一体何であろう」と言ってしまう。

※現在の瞬間の状態は確かに過去の因果によって成り立っているが、次の瞬間において全てが過去の状態になっており過去の記憶になってしまう。




プロフィール

悠村隆道

Author:悠村隆道
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妻と2人暮らし。68歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より平成15年「授戒」を受け、平成20年「嗣書」を授かりました。    

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