中論・8-6頌 自由の獲得と道義

第六頌 自由の獲得と道義

西嶋先生の訳
結果に関連して淡白でないと、自由自在の境涯も存在しないし、至福な境涯も現われて来ない。

道義がすべての行為の実行の中に含まれている場合には、目的という考え方の否定に固執し過ぎることも、一種の拘わりである。




中論を勉強しています
結果に対して淡白が良い、何故ならば結果に捉われると自由自在の境涯も存在しないし、結果に捉われると至福な境涯も現われて来ない。

道義が全ての行いの中に必ずある場合には、目的を持ってはならないと言う事に拘り過ぎる事も、拘りの一つであり決して正しい事ではない。

坐禅をしました
結果というものは頭で考えた観念であるから結果には何も実在していない、だから結果に対して余り拘らない方が良い。もしも結果を頼りにすると自分の思い通りになる境涯もなくなるし、そして結果を頼りにすると自分が幸せだと感じる境涯も現われて来なくなる。

「人が人として行うべき正しい道筋」と言う道義が全ての行いの中にある場合には、その行いにおいて決して目的を持ってはならないと決めつけるならば、それは拘り過ぎであり決して正しい事ではない。



*道義=人が人として行うべき正しい道筋

※何のわだかまりのない自由自在の環境の中に結果を持ち込むと、その結果というものがわだかまりになって自由自在ではいられなくなる。
※望ましい状態という結果は存在する訳ではない、瞬間瞬間の状態が少しずつ変化して望ましい状態に近づいていく事があっても決して望ましい状態そのものになる事はない。何故ならば望ましい状態という結果は頭で考えた内容であって現実ではない。

※人は時として自分の行いには道理があると思い込んで行動する場合がある。その行動が行き過ぎると行動することが第一となり何故に行動するのかという目的を無視し、目的を持つ行動を軽蔑するまでになる。そこまで行きついた行為の実行は目的という考え方の否定に拘り過ぎている。
※坐禅は道義に沿っている、坐禅は結果を求めないし意図的な目的も持っていない。




中論・8-5頌 現実世界の不存在と結果の不存在

第五頌 現実世界の不存在と結果の不存在

西嶋先生の訳
宇宙秩序と宇宙秩序でないものとが融合した現実の世界は、現実の行いその他が何も存在しない場合には認識することができない。

宇宙秩序の世界が現実的なものでなく、宇宙秩序以外の世界が現実的なものでない場合には、結果も具体的に作り出されたものとして認識されることがない。




中論を勉強しています
ダールマとダールマでないものが融合した現実の世界において、現実の行いや具体的なものや抽象的なものが何処にも存在しない場合には現実の世界というものは認識することができない。

言葉で説明できない世界においても言葉で説明できる世界においても現実的なものでない場合、結果も具体的に生み出されたものとして認識されることがない。

坐禅をしました
言葉で表現できない具体的なものと言葉で表現する抽象的なものが入り混じている現実の世界は、現実の行いや原理原則に順った現象や具体的な事物が何も存在しない頭で考えた世界において認識する事が出来ない。

言葉で説明できない世界に現実の行いその他が何も存在しない、そして言葉で説明する世界に現実の行いその他が何も存在しない場合において、結果と言うものは人間が考え出したものであると言う事に我々は気付く事がない。



*宇宙秩序=この世の中のあり様、又はすがた。ダールマ。言葉で説明できない実体。
*その他=諸々の現象・事象や諸々の事物

※行いが存在しない時は現実の世界が確認できない。
※現実の世界は、何も存在しない場合には気が付かない。
※ダールマは行いそのものである。行いは確認できるが結果や成果は人間が作り出した錯覚である。

※この第五頌は自分なりに、まだこなれていないのでもう少し検証してみようと思っている。



中論・8-4頌 一所懸命な行為と行為の認識

第四頌 一所懸命な行為と行為の認識

西嶋先生の訳
真剣な態度がないと、行為の達成を認識することができないし、行為の原因を認識することも全く不可能である。

真剣な態度がないと、現実の行いと行いの実行とが同じものである事が認識できず、行為の原因も認識することが全く不可能である。




中論を勉強しています
明確な意思や目的を持っていないと、行為をしている事に気が付かないし、その行為の原因はなんであるかを気が付く事は全く不可能である。

明確な意思や目的を持っていないと、現実の行いは行いを実行する事だという事に気付く事が出来ない。そして何が原因でその行為をしているのかに気が付く事は全く不可能である。

坐禅をしました
習慣や思い込みやなんとなく行いをしている時には、何かをやっていると認識する事は出来ないし、何故こんな事をしているのだろうとその行為の原因を認識する事も出来ない。

習慣や思い込みやなんとなく行いをしている時には、現実の行いと行いの実行とが同じものである事に気が付く事もなく行いを無意識のうちに実行している、そして何故こんな事をしているのだろうとその行為の原因を認識する事も出来ない。



*真剣な態度がない=明確な意思や目的を持っていない。習慣や思い込み。なんとなく。

※無意識に行いをすると、行いをしている事に気付かないし、何が原因で行いをしているのかも考えないし、これからする事が行いであるという事も意識しない。何か事が起きないと原因や結果を考える事はないし、縁というものを感じる事がない。




中論・8-3頌 抽象的な世界と行為や行為をする人

第三頌 抽象的な世界と行為や行為をする人

西嶋先生の訳
抽象的な世界が機能している場合には、行為や行為の実行も抽象的なものを作り出している。

行為は理論的にはっきりしないものとして存在する可能性があり、行為をする人も理論的にはっきりしないものとして存在する可能性がある。




中論を勉強しています
頭だけで考える世界においては、行為や行為の実行も現実のものではなく頭の中で考えている世界を作り出している。

行為は理屈に合わないものとして存在する可能性があり、行為をする人も理屈に合わない人として存在する可能性がある。

坐禅をしました
行いを頭の中だけで考えているうちは、行為や行為の実行と言う動作も現実的ではなく頭の中で考え出したものでしかない。

行為と言うものは必ずしも理屈に合ったものばかりではなく時には理屈に合わない場合もある、また行為をする人も「これが行為をする人だ」と言えるような具体的な存在ではなくあくまでも想像した人になってしまう場合がある。



*抽象的=頭の中だけで考えていて、具体性に欠ける様。
*理論的=言葉で説明が出来る様。
*行為の実行=動作

※「行為は理論的にはっきりしないもの・・・云々」と理屈に合わないことは合わない事としてありのままに教えてくれる中論が私はとても好きです。

※「理論的にはっきりしないもの」と言うものは、因果の法則に沿えば「理論的にはっきりしないもの」は何一つないのであるが、もしも我々の想像を超えると様になると「理論的にはっきりしないもの」と言うものが生まれて来る。




中論・8-2頌 現実の行いと行為および行為をする人

第二頌 現実の行いと行為および行為をする人

西嶋先生の訳
現実の世界における実行が実際にない限り、行為という抽象概念は、恐らく現実の行いをしていることとは何の関係もないであろう。

現実の世界における実行が実際にない限り、行為をする人も恐らく行為をすることと無関係になってしまっているであろう。




中論を勉強しています
現実の世界において行いが実際になされないならば、抽象的概念である行為という言葉は、恐らく現実の行いをしている事とは全く別の事である。

現実の世界において行いが実際になされないならば、抽象的概念である行為をする人という言葉も、恐らく現実の行いをする事とは別の事となってしまっているであろう。

坐禅をしました
現実に行いをしないで頭の中で行いを考えたならば、行いを意味的に考える「行為」というものは、現実に「行い」をしている事とは決して同じではない。それは行為と言う言葉だけの事であり、現実の行いとは異なる。

そして現実に行いをしないで頭の中で行いを考えたならば、行為をする人と言う「動作」も実際に行いをする事と全く無関係である。それは動作の事を行為をする人という言葉だけの事であり、現実の行いをする事とは異なっている。



*行為をする人=動作
*行為をする=行いをする

※行為と言うものは実際に実行があって始めて現実の行いと一つになれるし、行為をする人は実際に実行があって始めて現実の行為をする人と一つになれる。頭の中でいくら「私はやっている、実行している」と繰り返しても、現実に行為をしなければ、頭の中で「私はやっている、実行している」とは考えてない人や何もしていない人と自分は違うといくら主張しても何も考えてない人や何もしていない人と全く同じである。




プロフィール

悠村隆道

Author:悠村隆道
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妻と2人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より平成15年「授戒」を受け、平成20年「嗣書」を授かりました。    

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